倉敷市亀山(旧小字十六割り)の話です。

16割の古地図はここから分岐
 これは、このホームページの作者、「杉原尚示」の住む土地の歴 史です。

 現在の倉敷市亀山、地番にして1031から1077番地までの 四角い一角を、かっての小字で「十六の割」(じゅうろくのわり) と言います。

  この一角に現在の杉原家の祖先が住み着いてから、およそ340 年余といわれています。現在この地の杉原家は9戸となり、十六割と 杉原家とは切っても切れない関係です。

 かって、吉備の穴海といわれた児島水道の干拓は、天正10年( 1582年)の高松城水攻めの直後から、その築堤技術を応用して 開始されたといわれています。
 徳川時代になって、平和で人口も増加して、干拓はますます盛ん になりました。

 元和5年(1619年)、近くの陣屋である帯江戸川家、早島戸川家(ともに旗本)より担当者をだしあ い、共同して早島南端の弁財天から、倉敷のすぐ南の小瀬戸まで、 沖合いに潮止め堤防を築き、新田の開発をおこないました。
 承応2年(1653年)竣工、この新田を等分して両戸川家の所 領としました。早島西新田(西田村)は早島戸川領。沖新田(加須 山、亀山)は帯江戸川家となっています。このとき、現十六割は西 田村、早島戸川家領となりました。

 のちの南六間川掘削(寛文3年・1663年。完成、文政13年 ・1816年)により、十六割は地理的には西田村から切り放され て亀山分に近くなりましたが、それでも永く「西田村西之内」とし て、早島戸川領のままでした。
 これについては、「杉原は士族の出だからと、早島の戸川侯がど うしてもはなさなかった」という伝承があります。
 その後、明治になってようやく、帯江村亀山に属するようになり ました。
 今も亀山地区で十六割だけが、早島鶴崎神社、西田荒神社の氏子 であることや、西田地蔵尊を祭っていることなどは、かっての名残 であると思われます。

 また、早島町戸川記念館の「寛永洪水絵図」では、この地は「西 田飛地」とされており、ちょうど十六割のところで六間川堤防が決 壊して、水がとうとうと東の早島方面に流れている様子がみごとに 描かれています。

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これは、江戸時代の干拓の様子を示す地図です。

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