杉原盛重ゆかりの寺を訪ねて

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 杉原姓の戦国武将に杉原盛重がいます。広島県東部の神辺城主であり、毛利の尼子攻めに活躍し、尼子滅亡後は山陰における毛利方の責任者として尾高城主などをつとめています。智将といわれています。
 今日はその「杉原盛重」ゆかりのお寺2つを鳥取県西部に訪ねてみました。

『盛重の墓?』のある、会見町大安寺

 米子市から南へ車で15分、田園地帯が中国山地にとりついたあたりに、そのお寺『大安寺』はありました。実はここの先代住職(松尾恭穎さん)とは、このHPをはじめて間もなく、電話で取材させていただいたことがありました。早めにお訪ねする予定だったのですが、私がぐずぐずしている間に、ご病気でお亡くなりになったのはかえすがえすも残念でした。
 で、今日はその息子さんの松尾昭倫住職さんにコンタクトをとっての訪問となったのです。

 少し早く着いたため、さきに裏手にまわって「盛重の墓」とも言われている「宝篋印塔」を見せていただきました。四角い台座の上に宝輪のように刻んだ石の塔がのっています。2m50cmはあるでしょうか。当時とすると非常に立派なものだったのでしょう。これは盛重の3周忌法要がここ大安寺で営まれたさい、供養のため建てられたものだそうです。
 『大安寺』が盛重の戒名『見性院殿大安宗広大居士』と同じ名であることからも、たとえ文献に墓の位置が特定されていなくても、これが墓である可能性は十分に考えられると思いました。

 これについて、元福山市長の立石定夫さんは、「墓の前に立って、これほどとは予想もしなかっただけに、その風格と美しさに自失する思いである。」「この印塔は石造美術としても優れた形を持っている。台座に彫られている蓮華といい、月輪をもつ時代傾向といい、戦国時代の武将墓としては、代表的なものと云っていい。」(杉原盛重より)と述べておられます。

 「いやー、父は杉原盛重のことをいろいろ研究もし、本も出したり法要もしたりしていたんですが、私はあの法要(杉原盛重 没後400年法要、平成元年、大安寺)のときにも永平寺での修行の身でしてね。出てはいないんですよ。杉原公のこともよくは知らないんです。」日曜日のこととて、法事から帰られたばかりの御住職は、法衣姿のままお話をして下さいました。
 「杉原公(盛重)は、この寺の中興開基なんです。もとは足利らしいんです。本尊は観音様です。もともとここにあった小さいお寺を、杉原公が中興となって大きくした、その時に曹洞宗にしたようです。」
 「ここいらで曹洞宗はここだけなんですね。倉吉に常光寺という山陰の曹洞宗の本山的なお寺があって、そこからここへ持ってきたんでしょうね。杉原の菩提寺の福山の三宝寺もこの常光寺とかかわりがあって、杉原公は山陰経営にあたって、曹洞宗を上手に使っておられるように思います。」
 「ここは尼子ゆかりの人と毛利のそれとが混在している土地なんです。山1つ西へ行きますと、もう尼子ばっかりです。私は子どもの頃から、この寺は杉原公が対尼子で使った前線基地のようなものだと、聞かされて育ってきました。」
 今でも「尼子だ」「毛利だ」と言い合う土地柄なのでしょうか。でも私にはますます興味深い話が続きます。
 杉原盛重は、米子東部の尾高城の城主でしたし、死んだのはさらに東の「八橋(やばせ)城」です。鳥取城も勢力範囲として重要なところでした。杉原盛重を大将とする当時の毛利方は、鳥取県を足場に出雲の旧尼子勢力を治めていたのではないでしょうか。お話を聞きながらそんなことも考えたのでした

 「この寺の裏手に古墳があって、三角縁神獣鏡がでているんです。淀江町からこのあたりまでが、かっての出雲の中心だったという学説が今出てきているでしょう。妻木晩田遺跡とか。朝鮮半島の人や文化が直接やってきて根付いているのがここいらなんです。そこへ大和朝廷が大淀廃寺などを建てて、出雲勢力を西へ追いやったんです。このようにここは中央勢力に取って大事なところで、毛利も杉原盛重を山陰のかなめとしてここへ置いたのでしょう。」
 うーん。古代史をひもといての解説は、同じように古代史も趣味とする私にとってはとても分かりやすいものでした。
 話ははずめど時間は限られ、おいとまする時間がきてしまいました。「またインターネットをみる機会がありましたらよろしく。」という私に、
 「あ、うちでも今、見られますよ。」という意外な(失礼しました)お答。それならと、URLを紹介するのが最後になったのを悔やみつつ、別れ際にさらにもう1つ。「杉原姓のHPだけでは何なので、ラーメンのHPもやっているんです。今日こちらの天心で食べてきました。」といいますと、
 「あ、天心ですか。あそこもいいですが今度米子に来られたら、武蔵で食べてみて下さい。一種独特の味で美味しいですよ。」
 あっ。ラーメンも話が合う。様々に話が合いそうな若いご住職と再会を約したのは言うまでもありません。


尾高城と菩提寺「観音寺」

会見町大安寺の松尾住職に「もう1つ杉原盛重が建てたお寺がありますよ。」と紹介されたのが、尾高の観音寺です。杉原盛重が山陰を治めるのに拠点とした城が尾高城で、そのすぐ近くとうかがいました。
 行ってみると、なんと米子自動車道の終点米子インターから、大山に向かう道のすぐ手前にあるではありませんか。ここなら私も大山にスキーに行くときいつも前を通っているところです。朱色の瓦をのせた綺麗なお寺です。
 27代目といわれる陸浦弘道住職は、前触れもなく訪れたわたしを快く招きいれて下さいました。
 「ここは元米子にあったお寺です。四代目の和尚が名僧でしてな。杉原盛重公が帰依して、寺をここへ移して菩提寺にしたそうです。徳川になってからこの横の尾高城が米子に移された(米子城)のにともなって寺や町屋も米子に移りました。今も米子に尾高町という地名が残っています。」
 何と私は知らなかったのですが、この尾高城も、盛重が城主だった福山の神辺城と同様に、江戸になって取り壊されて米子城となったのです。因縁とでもいうべきでしょうか。ついでですが、あの尼子の月山富田城ものちの松江城だそうです。

 「尾高城とはどこでしょうか?」という私の問に、先に立って案内していただきました。観音寺のすぐ横、大山に一直線に上がる道が、麓の道と分かれるところの、その西側の小高い丘がその尾高城だったのです。あとで車を走らせてみましたが、案内地図もあって、本丸あとから、2、3の丸跡、そして今は保養施設が建っている天神丸という櫓あとと、相当な広さがありました。驚くような広い城だったのでしょう。またゆっくり来たいものです。

 観音寺の前には『小鷹城主杉原盛重菩提寺』という石の標識がありました。
 「ああ、こう書いたものもありましてな。昔はたぶんこう書いていたんじゃと思います。今は尾高と書きますがな。」
 「盛重は、ここ(尾高)と八橋と天万(大安寺)と3つの城をもっとったんです。ここらは重要なところだということで、毛利が智将といわれて杉原盛重を神辺からここへ移したんですな。」はるか昔をしのぶように、ご住職は遠い目をして話続けられました。
 「またゆっくり話に寄りんさい。」バタバタといとまごいをする私に、やさしく声をかけて下さいました.

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