新潟県新発田市赤谷の杉原さん

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 昨年、このホームページの掲示板につぎのような書き込みがありました。
 『私の父の実家、新潟県新発田市にある赤谷村には、たくさん杉原さんがいます。 たしか「杉原」というバス停もあった気がします。』
 ちょうど私が藤沢周平の「用心棒日月抄」という時代物小説を読んでいたころでした。えっ、そんなものも読むのかって。そうなんです。テレビで時代劇を見るのもすきなんです。テレビ朝日系で放映されていまして、面白いので原作がよみたくなって読んでいたところでした。その「用心棒日月抄」に、赤谷村が出てきたのです。主人公の敵役、いわば巨悪の根城として登場したのですが、この小説のなかで地域の情景描写が克明にされていたのはこの赤谷村だけでした。藤沢周平という作者には特別の思い入れがある場所に違いないと、よけいなことを考えていた矢先でした。このメールで、「赤谷村」が本当にあって、しかも杉原さんがたくさんいることがわかったのです。

 電話帳で調べて、直接お電話をさせていただきました。なんとここにも「地方史に詳しい杉原さん」がおられたのです。このホームページをはじめて以来、なぜか全国には「杉原姓研究家」とか「地方史研究家」の杉原さんがいかに多いかを知りました。先日は兵庫県杉原谷を訪ねまして、「杉原谷小学校の前の杉原校長が郷土史の専門家で、学習資料などを出版されている」ことを知ったばかりでした。
そして今回、ここ赤谷(村)でも杉原さんが、「歴史クラブ」を主催なさっておられることや、元赤谷中学校長の故杉原豊さんが、「新発田郷土史」編纂の中心になっておられたことも知りました。
 各地の杉原さんが、みんな同じ先祖から出たとはとうてい思えませんが、血といいますか、『杉原姓』にはとくに歴史好きが多いようです。私などはまだまだかけだしだなーとは、今回の取材を通じてつくづく考えた事でした。

 先日この赤谷の杉原明則さんから「越後境赤谷における杉原氏」などの資料をおくっていただきました。以下はそれにもとずいてまとめたものです。(98、4)


 新潟県新発田市赤谷の杉原さん

 新潟県新発田市の東側には広い丘陵地帯がひろがります。飯豊(いいで)山地で、そのふもとをながれる加冶川のほとりに『赤谷』があります。
 土器、石器などが出土することからも、古代から人が住んだところのようです。そこに保元平治の乱に破れた京の人々が落ち延びて住んだというのが最初の言い伝えです。
 旧赤谷村役場前にある石碑によりますと、その人は平保正で、「ああ、人生100年は白馬が走り過ぎるように一時なものだ」と武器を投げ捨て妻子をつれてこの地にとどまったということです。
 そのさい一緒に従えてきた人々と6戸で、『赤谷』という村の名前をつけてここを開いたといわれています。その6戸(六軒百姓)の一軒が杉原なのです。
 その後、城四郎長茂がここに城をつくってから田畑はますますひらかれ、人々がいっそう集まるようになったといいます。六軒百姓については、この城氏の家臣だったという説もあるようです。

 その後、鎌倉、室町、江戸を通じて、この地の重臣として『杉原』氏がでてきます。杉原十郎左衛門、杉原六郎左衛門、杉原惣右衛門などがそうです。
 またこの地は、東の会津との関わりが深く、鎌倉時代以降は会津領として、西の境界を守る城となっていました。
 江戸時代には会津藩の関所がおかれ、新発田から江戸へでる街道、参勤交代の宿場町としてにぎわっています。
 明治になってから鉄鉱山も開発され、一時は4、000人もの人口をかぞえますが、鉱山の閉鎖とともに人口は減少、「人口は減っているのに車の通行は増えている。春になると山菜を採る車がどっと押し寄せ、秋には茸や紅葉狩りを目当てにこれまた車がどっと押し寄せる」のどかな赤谷(村)のようです。
 赤谷村の杉原氏は江戸時代から明治時代にかけて分家を繰り返し、現在20数戸となっています。
 最後に杉原明則さんは結論として「赤谷村にきた杉原氏は、室町時代に小田切氏の守る赤谷城の後詰めとして、会津地方(会津野沢町)からきたとおもわれる。」「(新潟県)水原町にいた杉原氏は」関係なさそう・・と書いておられます。


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