岡山市足守の杉原氏
足守藩主木下家と杉原一族


 岡山市の西北部、吉備路から北へ少しはいった谷間に、「足守」というところがある。弥生時代最大の墓といわれる楯築遺跡にほど近く、謎の朝鮮式山城「鬼之城」のふもとにもなる。
 江戸時代、ここへ足守藩(2万5千石)がおかれた。代々、木下氏が藩主をつとめ、教科書などにも登場する歌人の「木下利玄」は、この藩主の直系である。幕末に大阪などで活躍した蘭学医「緒方洪庵」の出身地としても知られている。

 この足守木下氏の初代は、「木下家定」で、あの「ねね」の兄である。資料によれば、尾張の杉原助左衛門の娘ねねが豊臣秀吉の寵愛を受け、その兄孫兵衛も出世して「木下家定」と名乗って姫路城主となる。徳川となったあとは、備前足守初代藩主となったとある。おもしろいのはこの家定の5男が養子に出て、あの「小早川秀秋」であったことである。
 足守木下家はその後13代続き、14代が前出の「木下利玄」である。6代キン定のとき浅野匠之守事件があり、足守藩は赤穂城請取役となり行列して赤穂へむかっている。城請取の後、脇坂淡路守へ引き渡すのであるが、この行列にも何人か「杉原」の名がみえる。

 この木下家は、もともと「杉原姓」のため、子孫が随所で杉原を名乗るようになっている。また、尾張からついてきた「杉原」姓の人々もある。そして、古来備後の杉原氏の流れである杉原氏・・・と、足守の「杉原姓」は複雑である。
 この木下家家老4家のうち、2家が「杉原」である。1家は、木下4代利當2男正長を祖とする系で、岡山県重要文化財の「足守藩侍屋敷」に住んでいた杉原隆二氏はこの子孫である。代々杉原玄馬を名乗っている。もう1家は山の手杉原といわれた家で、地元系といえようか、足守の北部、大井を根拠にした一家である。もとは伊勢の進藤家の流れで、代々杉原一学を名乗っている。別記「杉原姓の起こりと・・・」の著者の下妻栄氏はこの子孫である。
岡山県下の杉原氏にはこのHP作者をはじめ、この足守杉原の出だという伝承を持つ杉原氏が少なくない。

 
岡山県重要文化財・足守藩侍屋敷足守藩主の庭園・近水公園  山の手杉原屋敷跡

北政所「ねね」と足守藩のHP
黒田さん

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