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私、あの侍屋敷で生まれて育ちました! ー岡山市足守の杉原さんー |
「杉原家の人々(全国版)」にはいろいろな反響がありました。そのなかの1つに、岡山市足守の杉原さんにお会いしたことがあります。別項「岡山市足守の杉原氏」で、「岡山県重要文化財、足守藩侍屋敷」の持ち主だった杉原隆二氏のことに触れていますが、その方は「ええ、隆二は私の父で、私はあの侍屋敷で生まれて育ちました。」と電話で話されるのです。さっそくおじゃましてお話しをうかがいました。
『大学を出て以来、ずっと大阪で会社勤めをしていたんですが、こんどこっちへ帰ってきました。いやー、よく全国を調べられているもんですねー、感心しました。』足守から遠くない大きな住宅団地の一角にお住まいの杉原正剛さんは、初対面の私にむかって、いかにも懐かしそうに口火をきられました。
『この前あの侍屋敷の蔵を整理しまして、いくつかこっちへ持ってきたんです。そうそうこれがうちの紋です。』横の立派な鎧櫃を指差されます。中央に小さな巴紋があり、そのまわりを太陽の光のような形が囲んでいます。いや、これは私の認識不足で「切り菊」だそうで、菊紋の周囲を切ったものだそうです。でも私が注目したのは中央の巴紋でした。尾道市高須町の杉原さんをお訪ねしたとき、この巴紋(巴に剣菱)だったのを思い出したのです。
はるか昔、平光平が備後の地で初めて杉原と名乗ったという言い伝えのある備後の杉原さんと、尾張の杉原から出たという足守の杉原さんに、同じ巴紋が伝わっていたのです。はるか離れたこの両杉原姓にはなんらかのつながりがあるに違いありません。
「そういえばこの方のお顔も、広島県東部で何度かおめにかかった杉原さんに何となく・・・・」言葉を継ぐ余裕もなく、ついついいろんなことを考えてしまいました。
『わが家は木下家から別れた杉原です。ずっと名前に「正」の字が入っていました。玄馬とも言っていたようで、足守藩の次席家老だったと聞いています。ほら、ここに「大参事」とあるでしょう。』
朱色の陣羽織が出てきました。なるほど、付属の木札に「足守藩大参事」とあります。「家老」が明治になって「大参事」と呼ばれたようです。これにも「切り菊に巴」の紋があざやかに染め抜かれています。かたわらには、紫色で模様の入った手甲のようなものが。『これをつけて旅をしたんでしょうかねー。』
『この陣笠は相当古いものです。以前は江戸末期の漆塗のきれいな陣笠があったのですけれどもね。』
『筆頭家老の木下家の屋敷跡は今小学校になっています。次席のわが家の先祖の家老屋敷は、今の岡山市足守支所のところにあってもっと大きかったのです。それが何かで今の侍屋敷に移ったと聞いています。あそこも元は家老屋敷らしいですが。私の先祖は資料では1、000石のときもあったし、500石のときもあり、いろいろのようですね。』
ニコニコと私の顔をみながら楽しそうに語られる杉原正剛さんの口からは、ずっと大阪に出られていたとは信じられないくらいいろんなお話しが出てきて、私も口をはさむ余地さえありません。
『元の足守藩の木下宗家は東京ですし、山の手杉原家も出られています。今足守で杉原本家といったらうちなんです。明治大正から昭和の初めのころには、足守銀行(今は中国銀行になっている)をやったり、製紙会社をつくったりいろいろやっていますね。そうそう、私たちの仲人も谷口久吉さんなんですよ。』
これにはびっくりしました。何と私が今の会社へ入社したときの社長の名がいきなり出てきたのです。お聞きしたところでは、杉原隆二氏と谷口久吉氏は大変に親しい間柄だったようです。おもわず、おとなりでやさしくうなずいておられた奥様と目をあわせてしまいました。
『中国銀行の社史を見ると、うちのじいさんや知っている人がたくさん写っていますね。』
実は私(杉原尚示)の先祖も遠くは足守杉原の出と聞いていましたが、意外なところから現代の接点もみつかり、この日は私にとっても大変に楽しい取材となりました。(2000、4)
参考:この「切り菊に巴」については、各紋帳などには「木下家」の紋としても桐紋とともに載せられています。「木下車」という名前で、車紋として解説されています。
<資料・関連系図>
杉原助左衛門 (杉原孫兵衛・初代足守藩主)
∥ーーーー+ー木下家定ーーー木下利房ーーー利當ーー+ーー利貞ーー足守藩主木下家
杉原家利女 | |
+ーねね(寧子) +ーー正長(杉原正長)ーー+
∥ 瀬川興三右衛門正方ーー(養子) |
豊臣秀吉 |
+ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー+
|
+ー杉原正忠ーーー房正ーーー景正ーーー正征ーーー正貞(壽男)ーーー正倫
(この杉原系は、玄馬と名乗る)