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大江山のふもと!、杉原城主4代の地(福知山・豊岡)

 復興からまだ間もないお城の天守閣は、木の香が漂っていました。「杉原家次が城主として入城した400年前もこうだったのかもしれない・・・」などと考えながら3階へ上がったときのことでした。壁いっぱいに描かれた派手な錦絵が突然目の前に現れたのです。数人の武者姿、そしておそろしげな鬼の姿。源頼光、坂田金時など「4天王大江山入の図」とあります。
 「そうなんだ。ここは大江山の麓になるんだ。」
 天守閣の窓からその大江山(832、5m)が遠望できました。
 今日は今から400年余り前、杉原氏が延べ4代にわたって城主をつとめたという、京都府福知山市、兵庫県豊岡市を訪問しました。

「福知山城主、杉原家次」のこと。

 京都府の最西部、丹波地方にある福知山城は、最初明智光秀が築城したと伝えられています。光秀滅亡後、そこの城主となったのが「ねね(おね)」(豊臣秀吉の正妻)の伯父、杉原家次でした。1583年(天正11)のことです。わずか1年あまりの城主でしたので、どれほどのものが残されているか、疑問におもいながら「福知山郷土資料館(お城)」を訪ねました。
 京都府の西部、兵庫県との境に近い福知山は、大江山の麓、見事な盆地でした。古くは12、000年前の縄文草創期の土器が出土し、弥生遺跡、古墳は「これほどとは!」と驚くほど、市内いたるところで発見されています。朝鮮半島から日本海を経て、直接様々な人々そして文化が渡来し、住み易い盆地に多くの人々が住んだのでしょう。「丹後王国」という人もいますが、当時は近畿でも先進地だったのにちがいありません。
 昭和61年(1986)再建されたという福知山城は福山駅の傍らに優雅な姿を見せていました。

 「杉原家次は1年ほどでしたからね。あまり資料が残っておらんのです。福知山時代の家次はあまり幸せではなかったのでしょうかねー。」
 お城の郷土資料館の岡部さんは、気の毒そうにそういいながらいくつか資料をコピーし てくださいました。
 それによりますと、

 『天正10年か11年ごろから12年9月まで秀吉の代官として、福知山を支配したのは杉原家次である。彼は尾張清洲の出身、7郎左衛門と称し、豊臣秀吉の妻ねねの伯父にあたる。播州三木城攻めに水の手を占領してその功を賞せられ、備中高松城の水攻めに際しては、城主清水宗治切腹の検視をつとめている。その後(略)京都奉行となり(略)。天正11年4月、賎ケ岳の戦いには坂本を守り・・(略)(福知山市史)
 天正中秀吉に従って播磨を伐ち三木城代となり、後高松城の落ちるに及び秀吉は家次をしてこれを守らしめた。また山崎天王山の虜守となり天正11年には近江坂本城主となり、京都の所務を掌り、ついで丹波福知山城主に移った。』(福知山市誌)

 とあります。こう読んできますとなんだか豊臣秀吉が占領した城の後守ばかりさせられてきたように読めないこともありません。で、1説にはつぎのようなことも出てきます。

『天正11年秀吉が家次に賞として貞宗作の脇差を与えたところ、家次は旧臣である自 分には大国をもらう資格がある。何ぞ一剣の賞で満足できようと石を以ってその剣を折 った。秀吉はそれを見て家次は気が狂ったかと言った。 家次は怒って福知山城に帰り 自刃した。』(福知山市誌)


 以下に関連系図を載せます。どうやらこの尾張杉原の一族は杉原の中では「焼野の流れ (恒清)」と言われる系にあって、連歌師で有名な杉原賢盛(宗伊)の子孫になるようです。

杉原光平ーー員平ーー恒清ーー心光ーー明平ーー政綱ーー満盛ーー賢盛ー+
                                 |
+ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー+

+ー長恒ーー孝盛ーー晴盛ーー利盛ーー家長ーー+
                      |
+ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー+

+杉原家利 ー+ーー 家次 ーー 長房 ーー 重長 ーー 重玄
|      | (福知山城主)(豊岡城主3代)    (重元)
|      |
|      +ーー 義正 ーー 長氏(兵庫県気多郡・旗本)
|      |
|      +ーー 七曲(ねねの養母)
|      |    ∥
|      |  浅野長勝
|      |        +ー 木下家定(岡山、足守藩)
|      +ーー あさひ  |
|           ∥ーーー+ー ねね
+隆利ーーーー 杉原定利(道松)    ∥
                  豊臣秀吉


「丹波のもみじ寺、長安寺のこと」

 杉原家次のお墓があるという福知山市の長安寺を訪問しました。丹波のもみじ寺として有名なところだそうです。少し山の中へ入ったところで、境内は緑のもみじがいっぱいでした。秋に来ればさぞかしきれいなことでしょう。
 杉原家次のお墓を訪ねますと、いちばん奥まったところとのこと。なるほど、石段を次々に上がって行った一番上に「開山堂」というお堂があり、その裏手に立派な五輪塔がありました。「福知山初代城主杉原家次の墓」とあります。「うしろ手の4つの塔は殉職者の墓」とも。死亡の翌年、1585年に建てられたという記述もあります。
 一年余りの在城で、資料にもあまり触れられていない「杉原家次」がここではこの上ない待遇を与えられているようです。ちょっと意外な気がしました。

 ご住職にうかがいました。
 『杉原家次はこのお寺の開基さんになっておられます。もっと古いお寺なんですが、火災などで焼失していたのを、杉原家次が復興したようですね。』
 なるほど、杉原家次は400年間このお寺の主役的存在としてまつられてきたようなのです。
 立派な資料をいただきましたが、それには杉原家次の項に
 『福知山城主となる。采地三万石。当時戦乱の余波をうけ、福知山領地は土地荒廃人民困窮の極に達し、相たずさえて四散するの惨状であったが、公は治世に勤め、主として彼らを慰撫するの方法をこうじ、庶民ようやく安堵して領内に復帰した。公はまた、敬神崇仏の念深く、当開山の高徳をしたい、帰依して当寺を菩提寺とせられた。』
などとあります。

「豊岡城主、杉原3代のこと」

 福知山市の西北、大江山をずっと回り込んだところに豊岡市があります。外湯で有名な城崎温泉は隣の城崎町です。この豊岡城主として、さきの福知山城主杉原家次の息子杉原長房から、杉原氏が3代続いています。豊岡市史などによりますと、おおよそつぎのようなことのようです。

 『杉原家次が秀吉の怒りをかって自刃したあと、この杉原家は四散します。長男杉原長 房は叔母(七曲)の朝の家で幼年時代をすごします。その後もう一人の叔母朝日の子(従姉)ねね(実は豊臣秀吉の正室だったのです)のとりなしで、大分県杵築の城主にな ります。
 慶長2年(1597年)に長房は国替えでこの豊岡城に移ってきました。およそ2万5千石だったそうです。
 大阪夏の陣には総勢650人の軍勢でで参加したとあります。また新しい川を掘るな ど治水にも努力したそうです。
 長房は56歳で死去。その子重長は14歳で家督を継ぎます。
 重長の時代は将軍家光の時代でもあり、寺請制や宗門人別長の作成など、近世幕藩体 制の基礎が固められた時代でもありました。
 重長は29歳で死去。甥の重玄を養子とします。このとき、所領は1万石となってい ます。しかしこの重玄は17歳で早世。ここで杉原家は断絶しました。』
 さきの、
系図参照


 豊岡市立図書館をお訪ねしました。
 訪問を待ちかねたように史料編纂室の山口さんは、厚さ10cmにものぼる膨大な資料を私の前に積んで下さいました。あ、ありがとうございました。
 「以前、広島浅野家のかたが、ここの杉原家と縁があるということで、調査にお見えになりましたよ。」「倉敷代官と近くの久美浜代官とは人事交流も含めていろんな交流があったようです。そういう点でも倉敷とは縁が深いですね。」「長房などのお墓は、来迎寺にあります。あそこは杉原が開基ではなかったでしょうか。」
 山口さんの一言ひとことが私には耳新しく、ノートをとるのが追い付きません。
 上記に概説したように、3代については詳しい資料がまとめられていました。また当時の家臣の家に残された「杉原氏相続の覚え」という古文書は大変貴重なものでした。
 さらに、豊岡領のすぐ隣に江戸になって、長房の従兄弟長氏が旗本で来ていることも初めて知りました。
 そして豊岡城跡は、豊岡の町の中央部、図書館のすぐ横手にありました。歴史散歩道も整備された小高い丘で、下左は天守閣あとです。早くに廃城となり後の藩主(京極家)は麓の陣屋に住んだようです。

 豊岡杉原3代のお墓は、市役所のすぐ近くのお寺、来迎寺にありました。立派な本堂のすぐ前に位置しています。断絶後長かっただけに、お寺との関係もあまり確かではないようですが、位置的には「主役?」とも思わせるものでした。

 

 でも、この豊岡では珍しいことに出合ました。なんとちょうどNHKで放映されていた大河ドラマ、そのなかの「大石りく」の故郷だったのです。私が豊岡市立図書館の山口さんをお訪ねした前日、NHKでは豊岡の石束家のりくの様子が長々と放映されていたのです。奇遇とでもいいましょうか。町をあげての大石りくブームのなかへ、私の「杉原3代調査」が割り込ませていただいたわけなのです。

 この杉原三代は、1597年から1653年まで56年間におよんでいます。徳川初期、各地で新体制が固まっていった時代を、この豊岡の人たちは「杉原藩主」のもとで過ごしたのです。わが家でいいますと、足守木下藩杉原家の末裔が干拓地に出てようやく生活の基礎を築いた時代とも重なるのでしょうか。いろんなことを考えながら歩いた豊岡訪問ではありました。

PS:尚、、豊岡杉原3代については、高濱さんのHP http://plaza22.mbn.or.jp/~kakudayuu/sugihara.htm に詳しい解説があります。

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