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日展作家、杉原元人さん

 圧倒的力感 
 私がその名を知ったのは数年前、とある絵の展覧会でのことでした。軸装の日本画があったのです。『瀑布 杉原元人』とありました。墨絵には珍しく骨太い大胆なタッチで、滝が重厚に描かれていました。同じ杉原ということもあって、思わず衝動買いしてしまったのをよく覚えています。どうも私が時たま絵を買うのは、衝動買いが多いようですけれども。そのとき美術年鑑で元人さんが結構著名な日展作家であることも知ったのでした。

 そして昨年(2,000年)の秋、岡山に日展が来たとき、また杉原元人さんの大作におめにかかったのです。真っ黒とも見える大きな絵から、見ているうちに巨大な山塊が浮かび上がってきたのです。「あ、こんな絵も描かれるんだ・・・。」
 二つの絵に共通するのは、圧倒的な力感でした。私はまだ見ぬ同姓の画家に想像を馳せてしまいました。

 関東が大雪の日に 
 「三年ぶりの大雪」と伝えられ、都心でも8センチ積もったと言う日の翌日、常磐線南柏駅からほど近い住宅地に、杉原元人さんをお訪ねしました。そこだけ切り取られ、森に囲まれたような閑静なお宅。「やあ、いらっしゃい。」元人さんは気さくな姿で直接アトリエへ私を案内して下さいました。ちょうど制作中のようで、画きかけの絵も置かれています。
 『いやあ、ちょうど3日前が誕生日で90歳になっちゃったよ。』えっ、よく確かめればその通りなんですが、目の前の元人さんはとてもそんなふうには見えません。どう見ても70歳か少し出たあたり。私を前にして話される姿も本当にかくしゃくとしたものです。
 『ああ、あの絵(昨年の日展での絵)を見てもらったんですか。あれは妙義山を描いたんです。私はそんなにいいとは思わなかったんだけど、えらい評価が高くてね。ほらここにも載っている。』  ぶ厚い美術年鑑を繰ってくださいました。なるほど、あの31回日展への出品作品”幻”が特選ギャラリーのカラー版の1ページを占領して載っているではありませんか。
 日本美術界で評価が高まる杉原元人さん。 
  その美術年鑑ではほかに「日本画家近影集」に載っていますし、日展の作家欄では東山魁夷、高山辰雄・・・と並ぶ11番目に「杉原元人」の名があります。よく見ると上位10人は「日本芸術院会員」ですから、元人さんはそれ以外ではトップの評価ということになります。
 『そう、でも僕はそんな(芸術院)ことが嫌いなんでね。』快活に笑い飛ばす元人さん、その画と同じ力強さが私にまで勇気を与えてくれそうです。やっぱり会いに来てよかった。

 「あ、紺綬褒章をもらわれているんですね。」リストを前に私が言うと、『そう、それは芸術にタッチしているものにくれるものなんだ。勲四等ももらっているよ。』。
 『今私の画は、千葉の県立美術館にいくつか入っています。やはりああいうところのほうが保存がいいですね。出身地の三重県からもいろいろ話があるんだけどね。』
 『この不況の中でなぜか僕の画が売れているんだよ。ありがたいことだよ。』
 『いつのまにか勲4等なんて勲章までもらうようになっちゃったよ。』ちょっと照れながらの元人さん、今や日本美術界での評価も高まってきているようなのです。

 生まれ故郷、鳥羽のお話も 
 そしてお話は生まれ故郷のことに。
 『私が生まれたのは鳥羽市の本浦と言うところです。隣の石鏡はあの鳥羽一郎、山川豊の出たところだけどね。この本浦は元は8割が杉原だったところで、私の家はそこいら中の土地を持っていた大きな家だったんですよ。』
 『でも、親父が放蕩してね。私が子供の頃全部売り払って、北海道で大きな牧場を始めたんです。競走馬のね。だから私は北海道で育ったんです。画の感受性なんかはそこで培われた。』
 『関東大震災の直後にこの関東に来たんですわ。私の教育のことなんかもあったようです。だから私が今画壇の大物の一人と言われるようになったのは、親父のおかげと感謝しているんです。』
 そして、杉原姓のこと・・
 『小さい時の記憶だけどね。鳥羽の本浦では正月に船をいっぱいに並べて、沖へ漕いでいくんです。杉原は元平氏だということで、赤旗をいっぱい立ててね。このふねのことは”とっぺ”と言ったんだがね。』
 『昔読んだ源平盛衰記か何かに、杉原源太左衛門という武将がいてね。平家方の軍団の総大将だったらしい。どうもその子孫らしいんですよ。』

 90歳とは思えない精力的なお話は、切れることなく続きます。この人はきっと平櫛田中さんのように、100歳を超えて制作を続けられるに違いないと思いました。
 いつまでもお元気でと念じながら、雪の残る関東路を後にしたのでした。(200 1,1)

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