「杉原姓目次」のページへ戻る
山口県萩市の元杉原さん

江戸時代の初期、関ヶ原の戦いに敗れた中国地方の雄、毛利氏はその支配地域を中国地方一円から防長2州(今の山口県)に縮小されます。当時の中国地方の幾多の戦国武将たちは、毛利家に従い、今の山口県萩市へと集結、その後の260年間をおくることになったのです。そのなかには杉原盛重という勇猛な武将を出した備後の杉原一族も入っていました。
そのとき萩へ集結した毛利家臣団杉原一族3家のひとつが、「高洲家」という形で今も存続しているということを知ったのは、私がHPを始めてまもなく、広島県東部の杉原さんを取材したときでした。

萩市の高洲家のこと
  そしてようやく念願の萩取材がかないました。そしてさっそく「高洲家」をお訪ねしました。
「いらっしゃい。」やさしい笑顔で迎えていただいたのは、「私は嫁に入った身ですから、詳しいことはしらないんです。」という高洲節子さんでした。
「でも、高洲家は家柄がいいと来る前から言われていたんです。今でもあちこちから問い合わせの電話が入ってまごついているんですけどね。」と大切に保存しておられる先祖からの諸資料を出していただきました。先祖書きあり、系図あり、写真あり、何かよくわからない資料あり‥‥‥、す、すごい。
「これが我が家の先祖の肖像です。」と古い巻き物をひもといていただきました。杉原高洲元興の肖像です。この高洲家は広島県尾道市高須町出身の杉原家で、「杉原高須」「杉原高洲」とか名乗っていましたが、この萩では「高須家」または「高洲家」となったもののようです。次から次へと資料が続きます。

突然でてきた「高杉晋作」の写真
  「これ、高杉晋作です。何か関係あるらしいですよ。」
え!、実は私も以前「高杉晋作ももと杉原という話を聞いているのだが事実かどうか調査してほしい。」というメールをいただき、私なりに調査したのですが、高杉家は広島県三次市出身で、杉原家との関連は特には見出せなかったということがあったのです。
「この写真、高杉晋作関連の展示が美術館であったとき貸し出したんです。”慶応2年長崎にて撮影したもの”という付箋がついていました。」
「この写真見てください。主人のおばあちゃんなのですが、この人と高杉晋作が従兄弟になるそうなんです。」
う~ん。すごい面構えです。さすが歴史を動かした高杉晋作の従兄弟、その人が実は高洲家に嫁入っていたんです。やはり高杉晋作と杉原家(高洲家)とは関係があったのですね。調べればまだ出てくるかもしれませんけど。
「そしてこの話は続くのです。「この人の娘さんが、小萩人形の元祖になるんです。」
杉原家(高洲家)が萩の文化、いや防長の文化に果たした役割がここにもありました。

吉田松陰と獄のなかで(高須久子さんのこと)
「高須久子ってご存知です?」
え、私実は良く知らなかったのです。山口を取材するなら当然ちゃんと調査していくべき名前なんでしょうけど。
「この前埼玉県のほうから問い合わせがあったのですよ。高須久子は野山獄で、吉田松陰といろんな交流があったらしいです。詩の交流などがおもらしいですけれどもね。芸達者な人で、いろんな人を集めて三味線などの稽古事をしていて獄へ入れられていたとか?」
う~ん。吉田松陰という明治維新の巨星が突然出てきてまごついてしまいました。「高須久子」というからにはもとの杉原さんには違いないのですが。
「野山獄」という毛利藩の獄舎あとを訪ねてみました。街中にある小さな場所ですが、どうやらここで元杉原さんの「高須久子さん」とあの「吉田松陰さん」とがかなり密接な交流があったようなんです。

菩提寺の海潮寺のこと
高洲家の菩提寺という海潮寺に案内していただきました。ずらっと並ぶ墓また墓。さすがに400年前の中国地方の戦国武将たちが集合した萩のお寺です。見たこともないような立派なお墓が並んでいるではありませんか。ここだけでなく、萩は特別にお寺が多い土地だといいます。
「これが高洲家のお墓です。」と示されたお墓。尾道の杉原家で見慣れた「剣菱に三つ巴」の紋が配され「高洲家先祖の墓」ときざんであります。しかもこのお寺の墓所の少なくとも3個所に「高洲家先祖墓」が並んでいるのです。
「この前も高洲と聞いただけで”名門ですね”といわれてまごついてしまいました。」高洲節子さんはお墓を前にさらっと言っておられました。
高洲家(杉原家)、400年の時を経て、今ここに甦るの物語でした。(2001,2)

inserted by FC2 system