早島戸川家の話です。


徳川の代、三百数十年の長きにわたりここ早島を治めた旗本戸川家。

戸川家の祖、戸川肥後守達安は備前の覇者、宇喜多家に父秀安の代から 仕え、備前児島の常山城を預かる重臣として活躍した。しかし、慶長四 年(1599)宇喜多家家臣団の権力争いのため備前を去り、徳川家康 の計らいで関東に下った。

 その縁で関ヶ原合戦には東軍として参陣、西軍石田三成の重臣島左近 を討ち取るなど武勲をたてた。そしてその恩賞として備中の国賀陽・都 宇の二郡に二万九千二百石を与えられ、庭瀬に居城を構えた.

 達安は寛永四年(1627)61才でその生涯を終えたが、遺領は嫡 子正安が継ぎ、寛永5年には弟の安尤に3、400石、安利に3、30 0石を分知し、早島知行所・帯江知行所をおこさせ、安尤、安利は旗本 に加えられた。
 その後早島知行所では二代安明のとき元禄15年(1702)6男安 通に400石を与え、中庄中島知行所を起こさせた。
 一方、本家庭瀬藩では達安の孫安宣が寛文9年(1669)に弟安成 に1500石を分知し妹尾知行所を、また四代安風のとき弟達富に1、 000石を与え撫川知行所を起こさせた。しかし安風が早世したため本 家は断絶となり、かわって達富が安風の名跡を継ぎ4千石を加増され、 延宝七年(1679)交代寄合に列せられた。

 こうして戸川家は本家断絶後も旗本として撫川、早島、帯江、妹尾、 中庄の各知行所を治め明治維新を迎えた。

(早島町戸川記念館資料より)




「戸川家系図」



   (庭瀬二万九千二百石)

秀安ーーー達安ーーーーー正安ーーーーー安宣ーーー安風(断絶)

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      |            |        |     |(撫川五千石)

      |ー助左衛門 |ー平助            |ー達富ー達索ー達恒ー達邦ー達寿ー達義ー達寛ー達敏

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   |ー主水   |ー助左衛門 |(妹尾千五百石)

          |      |ー安成ー正方ー達和ー達旨ー達訊ー達本ー達利

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          |(早島三千四百石)

          |ー安尤ーーー安明ーーー安貞ー安晴ー安聰ー安泰ー安熈ー安昶ー安悌ー安民ー安行ー安道ー安宅

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          |         |(中庄四百石)

          |         ーー安通ー安長ー安精ー安論ー安清ー八百次郎

          |(帯江三千三百石)

          |ー安利ーーー安広ーーー安村ー村由ー村貞ー安章ー安栄ー安愛

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          |    |ー安村

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          |ー権左衛門ほか7名

戸川家の立志伝、秀安の母の物語 inserted by FC2 system