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京都大学名誉教授は、材木屋さんの御子孫でした

京都の杉原さんの名簿(電話帳)をみて、2つのことに気付かされました。
1つは、さすが大都会、各家が点々としていて、田舎のようにいわゆる一族が寄り集まって住んでいるという形がほとんどないということです。
もう1つは、なぜか「製材業」という家が目立つことです。

そして鞍馬二ノ瀬町の取材で教えていただいた、「京都大学名誉教授 杉原彦一さん(二ノ瀬町在住)」を京都市内のマンションにお訪ねしたのです。

手広く製材業、明治の杉原仙之助さん
「やあいらっしゃい。」気さくに出迎えていただいた彦一さんは、大正8年の生まれということですから、私の父とほぼ同じ年代。でもかくしゃくとして「おまえ、変わったことをやっておるのお。」とでもいわんばかりに、楽しそうに2時間もの間私に付き合ってくださいました。まずは、二ノ瀬町の先祖のことから。

「明治時代に二ノ瀬と鞍馬、貴船の三集落が合併して鞍馬村になったんですが、そこで私のじいさんが村長をしておったというのを聞いておるんですけれどもね。そのじいさんは、あなたも行かれた二の瀬の私の家の、谷の向こう側で製材所をやっておったんです。仙之助といいましたけれども。」
え、仙之助!!??何か私の頭のひだにひっかかるものがあります。あわてて鞄のなかをごそごそ。
”あ、やっぱりそうです。実は『京都市姓氏歴史人物大辞典』というのがありまして、その杉原姓のところに仙之助さん、載っていますよ”と私。事前に京都市歴史資料館(北山)で調査した時の記憶が私に残っていたのでした。私が取り出したその本のコピーには杉原のところに
『明治・大正期には、葛野郡下嵯峨(右京区)の製材業者に、亀吉、仙之助がいた』とあります。

これが呼び水になったのでしょう。彦一さんが次々と話初められました。
「あ、その仙之助と亀吉はたしか兄弟です。仙之助が兄だと思いますが、仙之助はその嵯峨でも製材所をやっておりました。
亀岡あたりから大井川(保津川)を流してくる材木を嵯峨で集めて、製材所をやっておったんです。それからもうひとつ、東山の疎水の近くでも製材所をやっておった親戚がいたと記憶しております。」
「今もその嵯峨と東山に杉原家があって、仙之助の関係ときいていますので、親戚筋になるのでしょう。」
うーん。京都の杉原さんには製材業関係の家が多いんだなーという、電話帳での印象がいっぺんに解決してしまいました。

そして不思議な二ノ瀬町
「でも、二之瀬町は不思議ですわな。あれだけ杉原家があって、私なども親戚だという話を聞いたことがない。どういう関係か全くわからない。ずっと昔からどの家もあると思うんだけどね。家紋も違うし、本当に不思議だ。」

木材加工機械専門で40数年、勲二等
”ところで先生は機械工学科の御出身なんですか”私が話を先生御自身のことへと振ります。
「そう、それで戦時中は航空機関係をやったりしておったんです。でも戦後に大学院を出たとき、京大の木材研究所で木材の工作機械の担当をやらないかと主任教授に言われて行ったんです。そのころ農学部に移りました。」
「木材加工の機械が専門でしてね。帯のこ、丸のこ、かんなとか穴を空ける道具、合板を作るとき、材木をグルグルと剥いていく機械などです。」
「原理は長年あまり変わらないんですけど、高速化されたり、自動になってりはしていますね。それからどれも大変に危険な道具でしょう。それで安全性をどうするかということで、ずいぶん労働省へも引っ張り出されて規格をつくったりしました。」

京都大学農学部教授を20数年続けられ定年後近畿大学へ移られたという杉原彦一さん、退職後には「勲二等瑞宝章」を受けられたということです。
80歳を過ぎてもお元気で、天気の良い日は二の瀬の家で、水墨画や書をかく毎日というおはなしでした。どうかいつまでもお元気でと願いながら終えた取材でした。(2002,1)

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