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出雲の平田市では、杉原さんは本願家でした
鎌倉末期に入植した二家
 出雲地方の杉原さんについて電話取材するうちに行き当たったのは、出雲平野北部にある平田市の杉原さんでした。なんとこの平田の地では、今から700年ばかり前に小村さんと杉原さんがやってきて、両家が協力して沼だったこの地を開拓、今でもお寺や神社ではこの両家が「本願家」として重きをなしているというのです。
 出雲平野を東西に走る国道9号線を、斐川町から北へ折れ、出雲空港の近くを北上、斐伊川を渡ると平田市です。街へ入るといきなり「杉原人形店」という大きなお店が目に飛び込んできました。おっと、お訪ねするお宅にもう行き当たってしまったようです。
 『小村(おむら)家の先祖が近江地方からここへ来たのは正和年間といいますから、1312年代のことです。また杉原一族はそのあと文宝年間(1320年頃)にいずれからか来たと言われています(注:これはいずれも鎌倉時代末期になります)。平田は当時沼田の郷と言われて沼地が多かったようなのですが、そのときから小村と杉原の2家が協力してこの平田を開拓したんです。お寺やお宮もこの二つの家が協力して建てています』
 話されるのは小村尚さんという平田市小村家の一員で郷土史家でもある方です。

本妙寺と宇美神社建立の杉原一族
 『本妙寺というお寺を建立し、また氏神の宇美神社もまつりました。』横からはさきの人形店のご主人で平田市杉原の総本家という杉原邦彦さんが話されます。
 『小村家と杉原家は正月の11日、蔵開きのとき、一族揃って本妙寺に年始に行きます。それからお宮へ行って中殿に上がりご祈念します。次に杯の回し飲みをして接待を受けるんです。』
 お二人のお話が続きます。
 『紋付袴の正装で行きます。宮上がりと言ってこれは小村、杉原の二家だけ、本願家といいますがその家だけのものです。10月の秋祭りの時も二家揃っていきますし、数十年に一度の遷宮のときの諸行事もすべてこの本願二家だけがやることになっています。』
 『こうしたことがもう数百年、ずーっと続いているんです。接待の料理も昔から決まっているんです。』
 なるほど、平田市史の宇美神社の項に、「開拓時代の草分けと称する小村の一族が(略)杉原氏の協力のもとに云々・・・」といった記述がみられます。(第4編第二章)
 なんだかすごいお話になってきましたね。

 また明治初期にこの本妙寺住職が調査をして記録した文書には「杉原氏の古い過去帳の裏に、桓武天皇11代孫平忠盛次男杉原出雲守正盛9代の末孫杉原倉之進が来てこの地に住んだ。」(口語体に改めました:尚示)という記述もあるようです。

 
本妙寺で杉原さんと小村さん本妙寺の「本杉原総廟」宇美神社

杉原盛重の次男のお墓が平田に
 小村尚さんはさすがに郷土史家だけあっていろんなことに詳しく、毛利尼子合戦のとき、この平田の地にあの杉原盛重が来ていたことを郷土史誌に紹介されていました。
 「出雲平野では前後3回にわたり悲惨な戦闘が繰り広げられました。(略)(永禄12年)6月14日には、平田手崎城あやうしと、吉川元春は武将杉原盛重を援軍にさしむけ危機を脱した。(略) この戦で散った戦死の塚が、久木、荘原(斐川町)の田園地帯のあちこちに点在する」(「郷土史ひらた」より)
 『それでこの盛重の次男の墓がこの平田にあるんです。杉原盛重が死んだあと、遺産争いから次男の景盛が兄の元盛を討つんですね。そのあと景盛はこの平田まで逃げてきて自害しているんです。景盛の墓(右の写真)のある大林寺にはその遺書も残っています。』と案内していただきました。
 『もっとも景盛は尾高(米子市)で捕らえられ、殺されたというのが定説のようですけれどもね?』
 『毛利尼子合戦のとき景盛は盛重とともにここへ来て戦いに参加しています。そういうことで縁のあるこの平田に逃げてきたんじゃあないでしょうか。』ニコニコ笑いながら、いろんなお話を紹介していただきました。


 1、300年代の初めにこの地にきて開拓をはじめた平田市の杉原氏は、1,500年代の戦乱をくぐりぬけ、いろんな伝統を守りながら現在に至っているようなのです。
 お別れするときに杉原邦彦さんがお土産をくださいました・・・。「平田みそ」とありました。『うちは人形店ですけど、こうじや味噌もつくっているんですよ。』なんとも印象に残るお土産ではありました。(2000,11)

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