津山作州がすりの杉原博さんは、
府中市出口町の出身

 西の小京都と呼ばれる津山市。その中心街の一角に杉原博さんを訪ねたのは、まだ桜の花が残る、4月中旬のことであった。
 津山市の観光案内地図に「今も手織りで、ギッチョンギッチョンはたを織る、作州絣作業場が見学できます。」と載っていたのをみていたのである。「手織り」というものがぜひ見てみたかったし、興味のありそうなつれあいもさそって出かけたのであった。

 「こんにちは。倉敷の杉原尚示です。」
 『ああ、先日おおくりしたものでは、いけませなんだかな?』
 ここで、気がつけばよかったのだが、まだとんちんかんな受け答え・・・。
 「津山市の観光案内をみまして、これはぜひお話をきかねばと、おじゃましました。」

 では、ということで、作業場に案内していただきました。広い作業場に「ハタ(織機)」が4~5台。奥には古いものが積み上げてあったりする。
 『今は材料の糸がなかなか手に入らなくなりましてなー。いつも織っているわけではありません。』と織機のカバーを取ってみせていただいた。紺色のかすりの布が巻取られている途中である。

 『昔はこのあたりでも皆ハタを持っていまして、娘時代に織っていたものを、そのまま嫁入りに持って行ったもんです。戦争中に燃料などにしてしもうて減ってしもうたんですよ』
 『私は、大阪の会社からこの津山に出ばってきとって、こっから戦争にもいきまして、終戦になったんですよ。』
 『そのあと、かすりをはじめましたんです。ハタを集めて各家庭に配ったり、ここへも8台、分工場へも置いて。当時は県や市も力をいれてくれましてな。指導員も市から出てきとりました。県と相談して”作州がすり”という名もつけて、さかんにやっとったんですわ。』

 事務所の周囲には「○○振興会」とか、全国の大会などでの表彰状がズラリととりまいている。
 『そのうち、あちこち大きな工場ができまして、みな勤めにいくようになりましたでしょう。内職はすたれてきましてな。今はもうここだけです。私もちょっと体を悪うしまして、見学もあるから続けとんですわ』
 『これらの多くは京都へ出して、細工してもらっとります。』といってみせていただいたのは、かすりの布を使った見事な財布や紙入れ、ネクタイ、のれんなどの作品の数々。テーブルセンターには、三つ葉葵の松平氏の紋や、池田氏の蝶紋などが見事に織り上げてある。

今また、工芸品があちこちで盛んに振興されている時代になってきているが、この「作州がすり」も、もう一度往時に戻せないものか・・・などと思いながら、辞したのであった。

 最後に『私も元は府中でしてな。本家本家と言われて。府中中学の2期生でした』『中学でてから、岩手県庁へ勤めたのが最初で、ずっとサラリーマンをやっとりました。』
 ハッ。府中といえば・・・。

 何と帰宅してこの「杉原博」さんからの、以前のお手紙を確認したところ、「広島県府中市八ッ尾山城主の子孫で、出口町の本家の三男」とあるではないか。それならば広島県東部の杉原姓の元家となる家である。

 仕事を持ちながらの断片的な調査で、どうも私の頭の中で、ご本人からの手紙の内容をとりちがえたままでのインタビューになってしまったようである。大失敗の巻であった。

PS: 杉原博さん、たいへん失礼いたしました。みなさん、ごめんなさい。


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