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吉田松陰の恋人は元杉原さん

 
「枯草を踏む忍びやかな気配に振り返ると、前日入獄したばかりの年若い侍が、うっそりとそこへ佇っているのでございます。
 その人は、私と目が合うやいなや少し慌てた様子でいったんは天を仰ぐように、高く視線をそらせてしまいました。獄舎をとりまく土塀のそばに、黄ばんだ葉を、あらかたふるい落とした銀杏の大木が一本、蒼く澄んだ空にむかって、無数の細い枝を鋭く突き上げております。おそらくその梢のあたりから、徐々に目の位置を下げてきて、再びわたくしを捉えると、やや甲高い声で口篭るように話しかけてくるのでした。
 『‥‥‥高須さん、と申されましたな』
 『はい、高須久子でございます』
 私は丁重に答えましたが、笑いが滲み出るのを、何とか我慢しておりました。」

 これは古川薫氏の第80回直木賞候補になった「野山獄相聞抄」(別冊文芸春秋1978年、のち同名出版、文庫版では『吉田松陰の恋』)の冒頭の一節です。
 品川での海外渡航に失敗し、郷里の獄につながれた吉田松陰が女囚である高須久子と初めて言葉を交わす場面です。このあと短い獄中生活のなかで二人にはほのかな恋心が芽生えたと言われています。現存する2人の交換した歌などからそれが窺い知られるわけです。
前回のレポートでも報告しましたが、萩の「高洲(高須)家」「木梨家」「杉原家」の3家は、江戸時代の初期に備後の杉原家が萩に転居したあとで名乗った名字なのです。そしてこの高須久子さん、実はその高洲(高須)家の一族なのだというのです。このことを聞いては、私も調査しないわけにはいきません。
そしてこの高須久子さん、何しろあの明治維新の多くの人材を育てたという吉田松陰の唯一の恋人なのですから!!。
これについては、今年(2002年)1月NHKの「そのとき歴史は動いた」でも放送され、話題を集めました。
す、すごい。血が騒いできたではありませんか。

 

吉田松陰のこと
 まず、吉田松陰の解説から始めましょう。
 1830年に萩の杉家で生まれ、藩の学問を受け持つ吉田家の養子となります。幼い頃から神童とうたわれ、10歳で藩主の前で講義したと言われています。(幼少の神童はいまでもあちこちにいますよね。でも)
 その後も藩主の前で度々講義、「藩主おおいに感動」などと記録されています。20歳前後には九州一円、東北一円など各地を遊学、見聞を広めています。
 1854年、日本の将来を憂え、来日したアメリカ船に乗り込み、海外雄飛を依頼するも拒否され、囚われの身となります。そして故郷の獄「野山獄」に入れられるのです。さきの高須久子との出会いはそのときのものです。
 彼は獄の中で学校を開き、多くの囚人たちや獄卒、はては獄の責任者の侍なども弟子とします。
 一時出獄が許されて杉家お預けの身のとき、敷地内に「松下村塾」という学校を開き、萩藩の若者達の多くが学びにきます。わずか1年半ほどの松下村塾ですが、そこからは高杉晋作、久坂玄随、木戸孝允、山県有朋、伊藤博文‥‥と明治維新で活躍するそうそうたるメンバーが巣立ちます。
 その後わずか29歳にして吉田松陰は幕府の安政の大獄で処刑されるわけですが、もし松陰なければ明治維新はなかったと言えるくらいその育てた人材の豊富さは目を見張るものがあります。
 「維新前夜、一瞬の光芒のごとく時代を駆け抜けた吉田松陰」とよく言われますが、その松陰の唯一の恋人が「杉原さん」だったのです。

 秘められた史料、高須久子投獄の真相とは?
 この高須久子さんについては長い間詳細がわからなかったようなのです。さきの古川さんの小説でも入獄原因は「姦淫のためでございます」と言わせたりしています。
 ところが戦後も昭和60年代になって、当時の裁判資料など新しい史料があきらかになってきました。NHKブックス619「松陰と女囚と明治維新」(田中彰)でそのあたりの詳細が述べられています。またさきのNHK「そのとき歴史は動いた」でも報道されました。
 実は高須久子さんは、300石の高須(高洲)家のあととり娘でした。養子に迎えた夫が早くなくなり、寂しさを紛らすために三味線などに興味を覚え、町の三味線弾きなどを度々呼んで家で演奏させていたというのです。
 ところがこれが今で言う「被差別部落民」だったわけで、身分制度が明文化されていた封建時代のこと、「武士が被差別部落民と交際するとはけしからん」ということで、元夫の実家などから訴えられて、獄に入れられる身になったというのです。
 その裁判史料では、高須久子さんは町の三味線弾きなどについて「すべて平人同様の取り扱い」をしたとたびたび述べておられます。彼女の中に封建時代でも「人はみな人」という平等思想の萌芽のようなものがあったことは疑いはありません。今で言えば人間の平等感、ヒューマニズムに満ちた人であったようです。

松陰の思想に高須久子の影響が!
 その高須久子さんの存在が封建時代を打ち破る英雄、吉田松陰にどんな影響を与えたのでしょうか?田中彰氏は書の後書きの中で次のように述べておられます。
 「国禁を犯して下田渡海を試み、「自由」を求めて海外へ雄飛しようとした松陰。
封建社会の呪縛がいかに人間の「平等」を奪っているかを痛感する女囚久子。
野山獄で相見えた二人は、獄中と言う閉ざされた世界にあればあるほど、彼らは人間の「自由」と「平等」とをいっそう実感し、共鳴しあう存在であったのではないか。」
 たしかにふたりとも、時代より早く生まれすぎたと言えるかもしれません。でもこういう人たちの尊い犠牲の上に、私たちの今生きている時代があると思えば、「高須久子さん、吉田松陰さん、ありがとう」とすなおに言えそうですね。

 高須久子さんのその後
 さきの田中彰さんの著書では、高須久子さんは明治元年に許されて出獄、また「晒しの誅伐」とされた被差別部落民2人も明治元年に許されています。時代が変わったわけですね。
でも、高洲(高須)家と久子さんの関係はどうやらそのまま勘当状態が続いたらしいのです。次のような情報が寄せられました。
 吉田松陰に野山獄で関わりのあった女囚高須久子さんが、晩年、私の曾祖母の乳母をしていたのではないかという事を祖母から聞き、現在、墓所を探している所です。(略)曾祖母は祖母に名前を言っていませんでした。でも、吉田松陰が野山獄で使っていたお膳を形見に持っていたそうです。
 曾祖母は養育係として、目の潰れた、足の曲がらなくなった方に来て貰い、(祖母は曾祖母から名前を聞いていないのでわからないのです。)身の回りの世話をその方の姪(白石のおばさんと言っていたそうです。)がしていたそうです。曾祖母がまだ7・8才の頃から、学校から帰ると、夏でもコタツで足を温めながら、コタツの前に座らせて、百人一首を暗記させたり、史書五経、孟子等を聞かせて、行儀作法も厳しかったそうです。
 「松陰先生の彼女に育てられた」と聞かされました。
 その方は明治37年に亡くなっているのです。資料によると、(高須久子さんは)安政元年(1854年)に37歳とありますから、出獄時の明治元年(1868年)には、14を足して51歳です。亡くなったのは88歳という計算が成り立ちます。長寿だったんですね。」
「だから、出獄後は身寄りのないまま、10何年の間、苦労された事だろうと思います。獄は冷えるし、栄養も少なく、眼も足も悪くされたのは当然かもしれません。」

 でも、我が高須久子さんが長寿を保ち、吉田松陰の思い出を後世まで伝えていたとは、嬉しい限りです。
 私もこの取材を通じて、すっかり高須久子ファンになってしまいました。杉原姓の女性としてはあの”ねねさん”以来250年ぶりにあらわれた、すばらしい女性と言ってはいいすぎでしょうか。

最後に吉田松陰が幕府の命で再び江戸へ(処刑のため)呼び戻される直前に、その吉田松蔭と高須久子が交わした歌を紹介しておきます。

 手のとわぬ 雲に樗(おうち)の 咲く日かな       久子

 箱根山越すとき汗のい出やせん 君を思ひて ふき清めてん    松蔭
 一声を いかで忘れん 郭公(ほととぎす)     松蔭

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