杉原惣領家の子孫という、杉原さん(広島・府中市)

 広島県東部、福山から北西へ車で約30分のところに府中市があります。府中家具や府中味噌で有名なところです。
 立石定夫氏の『杉原重盛』では
 「すぐ近くの府中の八ツ尾山城には、杉原惣領家が勢威を振るっていた。」「南北朝期、(略)杉原伯耆守光房(左近将監)は、、幕府の命を受けて、備後の秩序維持のための発しうる立場と勢力を・・(略)、守護同然の勢威を持っていた。」
 「おそらく光平(杉原初代)達は、その後杉原保に土着してその姓を名乗り、早くから在庁官人として生きる方向を見定め、鷲尾城から晴れた日には展望でき、(国衙の近辺である)八ツ尾山城に拠を移したと見られる」
 などとあり、広島県東部の杉原氏の発祥の地として、重要なところです。

 ここに、八ツ尾山城主の末裔といわれる郷土史家、杉原茂さんをお訪ねしました。
 杉原茂さんは、ちょうど20年前に発見され、その後急速に隆盛をきわめている「府中・首無し地蔵」の代表委員をしておられるということで、「首無し地蔵のホームページ」を通じて、インターネットでお近づきになった方です。
 で、さきに「首無し地蔵」さんへお参りをしました。府中市街地の北西の端、山へ上がりかけたところ、府中公園の隣にそれはありました。「20年前、あぜ道の横でみつかり、その後参詣人が絶えない」という話から想像していたのは、ちょっとしたほこらのようなものでしたが、来てみるとどうしてどうして、本堂をはじめ、立派な「ガラン」を構えた、「お寺さん」になっていたのです。
 本堂の奥に地蔵堂があり、そこへ石の首無し地蔵さんが安置してあります。そして何と、お参りした人がそれをみんな、さすっているのです。お地蔵さんをさする(なでる)ことでおかげがある・・・、「さすり地蔵」なんです。お寺さんの御本尊は、大体奥へ安置してあり、よくて遠くから拝められるもので、こうやってみんなが「さする」本尊とは・・・と、それにまず驚いてしまいました。

 「たしかにそうですね。地元ではあまり気にしませんでしたが、そういえば珍しいんですね。みんながなでるのであのお地蔵さんも、最近ではかなり丸くなってきましたよ。」境内の前に数軒ある土産物屋兼食堂の1軒で、娘さんが説明してくれました。
 「20年前に見つかったときは、この写真のようにあぜ道の横にちょっと置いてあって、そこへ花を供えたりしていただけなんですが。みるみる寄進が集まり、こんなになったんですよ。私の両親も2年後にこの土地は店を出さしてもらって。私なんかそのおかげで大きくしてもらって、学校へ通わせてもらったようなもんですから。」
 うーん、あなどれないぞ・・・。その娘さんの美貌が、私の中でお地蔵さんの権威をまた高めてしまったようです。
 で、「あ、杉原茂さん。今朝方もお参りして帰って行かれました。ここから見えますよ。そら、あの坂のすぐ下の家です。」と、教えていただきました。(美人だと、文章がすぐ敬語モードになる私です!!)。

 「こんにちは。」まだまだ残暑のきびしい8月の下旬。「私は冷房は弱いんですがね。」と言いながらも、訪問者に気を使ってクーラーのスイッチを入れて下さった杉原茂さんは、80過ぎとは思えない、若々しい目をした方でした。周囲にはうず高く郷土資料の本の山。
 あれは、奈良におります私の息子が、私の原稿をのっけてくれているんですよ。」さっそくインターネットの話題から話がはじまります。あと30年後に私が、その時の先端技術の話題についていけるだろうか・・。などとも考えながら、あっというまに時が過ぎます。
 「この前、この本を出したばかりですよ。さしあげます。」みると『府中人物伝・続編』という分厚い本。「この藤野守一という人は、岡山中学にも行きましたし、大原さんや石井十治さんなど、岡山のひととも懇意だったようですよ。」。なんとこの「人物伝」はこれで3册目だそうである。「八ツ尾山城主記」を含め、数册の郷土史関係の本を出版されておられるとか。雑誌などへの寄稿は、数しれずといったところのようです。

 話が盛り上がったとき電話がなりました。「あ、福山FMという小さいFM局がありましょう。9月1日に、そこへ生で出演してくれということでしたわ。女性のアナウンサーからの電話でしたがな。」忙しい方である。でもどうしても60過ぎにしかみえないこの若さは、なんなんでしょう・・。
 「先日、津山の杉原博さんにお会いしました・・。」と杉原姓の話題にふってしまいました。「あ、あの方は本家筋の人でしてね。同じ八ツ尾山城主の子孫なんですが、むこうは本杉原といいまして、他に上杉原、下杉原がありまして、私とこは下杉原なんですわ。」お手製の系図を机いっぱいに、何枚もひろげながら詳しく解説してくださる・・。
 「ある郷土史家が、光平が八ツ尾山に構えたというのは謝り、なんて書きましてな。私がこの「城主記」で全面的に反論したものですから困ったようです。あと、なんと書いてきますやら・・。」
 「そういえば、平光平は、桑名から出て、岐阜とか播磨とか。そして最後はこの八ツ尾山に入ったということなんでしょうかね。」と、わたし。
 「いやー。光平の伝説もあちこちと、まるで義経伝説のようですわ。ハハハ・・。」

 最後にかんじんの「八ツ尾山」に案内していただくことになりました。府中市の北側にそびえる、亀ケ岳(539m)への登山道です。対向車があったらどうしようかというような、うねうねと続く山道を、一生懸命ハンドルをきっていますと、「これが青目寺(セイモクジ)です。平安時代は頂上近くの七ツ池にあったようですが、のちにここへ移したそうです。国宝級や大蛇伝説もあるんですよ。」
 さらにしばらく行くと急に眺望が開けた。
 「あの山が八ツ尾山です。この亀ケ岳連峰と府中の街の中間にある、富士山にもにたちょっとした独立峰でしょう。あの頂上のあたりに平らなところがありましてな。それからあの左へちょっと下がったところへも平らなところがあるんですよ。兵舎がたくさんあったんでしょうな。」
 「あれが先祖の地です。毛利元就がこの八ツ尾山に入って、あの向こうに見える山の宮一族と対決して、何ヵ月も戦ったというところですよ。杉原は当時毛利方でして・・・。」
 うーむ・・・、杉原茂さんの著書の印刷所は「宮印刷所」だったような。とへんなことに気づきながら、シャッターを押すことに専念していた私でした。
 それにしても、この亀ケ岳の頂上近くにある「七ツ池」は不思議なところでした。山のほとんど頂上近くに、満々と水をたたえた、大きな池がいくつもあるのです。府中市は公園として整備しているようですが、平安時代からけっこう有名なところだったようです。
 「五番池の底からは、今も水がこんこんと湧き出ているそうですよ。まあ、サイフォンの原理なんでしょうな。ここは霊的に高いところだ・・。なんていう人もいますがね。」

 そういえば、この府中から北へ行ったところにあるのが、「帝釈峡」や、日本のピラミッドとして一時有名になった「葦嶽山」だなー。などと考えながら、帰途についたのでした。

                            (’97、8末記)

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