杉原盛重が城主だった、広島県東部の神辺城。その盛衰についての研究成果がありますので、紹介します。年代を追って、城主と、そのいきさつ資料がのせられています。著者は高知市在住の杉原勇三さんです。
現在の神辺城天守跡 神辺城跡からの展望
- 1334年・建武元年
- 1335年・建武2年
- 神辺に築城し、11月26日完成す。
11月29日福山城にて討死。「浅山、姓は源、名は義治、後に北朝に下る。」(備後古城記)
- 浅山次郎義基
- 1362年・正平17年
- 浅山次郎義基
- 山名氏に攻め落とされ、城を退去する。(太平記、巻7)
- 山名伊豆守時氏(山名小二郎)
- 城主。建徳元年(1370)2月28日歿。または建徳2年(1371)12月28日没。伯州光孝寺に葬る。法名 光孝寺鎮国道静。
- 山名陸奥守氏清、民部少輔
- 城を継ぐ。備後守護。元中8年(1391)足利義満にはかられ、二條大宮に戦い敗戦。詮範に斬られる。明徳2年(1391)12月31日歿。号を宗鑑寺という。(新古今集にその著すところの歌載る)。
- 山名左馬助大夫時清、正監 城を継ぐ。
- 山名伊興守時義、弾正少弼
- 元中時中、備後を領す。康応元年(1389)5月9日歿。法名大等寺。
- 山名時照(時煕)、宮内少輔
- 神辺城主。元中8年(1391)備後を領し、備中守護職にて備後を兼摂。永享7年(1435)7月4日歿。法名巨川常熈。
- 細川阿波守満之。兵部少輔。
- 頼春の末子。明徳(1390~)以後、山名氏に代わりて備中守護職にて、備後を兼摂す。応永12年(1405)歿。号心鏡院。
- 細川阿波守基之、公部大輔。 満之の子。(新古今集に作品を残す)
- 1441年・嘉吉元年
- 山名左エ門佐持豊、入道宗全
- 8月神辺城を再築。城砦を改築し、山城なる。文明5年(1473)3月19日歿。法名最高崇峯。(面色はなはだ赤く、世人よんで赤入道という)
- 山名近江守是豊、弾正少弼
- 持豊の2子。号を丈休という。享徳2年(1453)4月10日歿。「深津郡神辺城は、嘉吉、応仁の比、山名是豊又は山名近江守丈休当城に居る」(福山史料)
- 1453年・享徳2年
- 山名二郎時豊、中務少輔。 持豊の第4子城主となる。
- 1467年~・応仁 山名忠義 持豊の臣。備後守護代となる。応仁中。
- 1471年・文明3年 山名又次郎俊豊
- 政豊の第2子。城主となる。
- 「正平17年、山名時之、当国を略し、後に足利義詮に降る。明徳の乱、その子氏清、謀反して誅せられ之を失い、備中守護細川満之、其の子基之、相次いで守護を兼摂す。嘉吉中、山名時氏の曾孫持豊、赤松満祐を誅せし功を以て守護を補し、次子是豊を遣わして神辺に治せしむ。文明中、宗家政豊(是豊の従子)の次子又次郎俊豊入って守護をつぐ。傳えて山名氏政に至り、天文7年、大内義隆に滅ぼさる」(地誌提要)。
- 1504年~・永正 山名忠勝、宮内少輔 永正中
- 1538年・天文7年
- 山名氏政(興氏)、宮内少輔
- 大内義隆に攻め落とさる。備後鞆の津、女婿、山名治良源清熈に蟄居。同家にて歿。7月17日。
- 「彼の為平の嫡流杉原播磨守匡信の代に同国沼隈郡山手村銀山之城替え仕候。匡信の子を豊後守理興と申候。理興の子を播磨守盛り重と申候・・・神辺の城に山名宮内少輔氏政、将軍家より備後の探題職に補せられ在城しけるを、天正7年7月に義隆卿氏政を誅せられその跡を盛重に宛行れ候。それより神辺に在城・・・」(木梨家文書)
- 1538年・天文7年
- 杉原理興(まさおき)宮内少輔、(忠興・ただおき)。豊後守
- 氏政を攻め落としの功により神辺城主となる。「天文7念7月、杉原忠興、神辺城主山名興之を追落し、当城を賜う」<残太平記>。
- 義隆の一代に、安芸国武田が城金山、厳島神主が城桜尾、備後国には山名宮内少輔理興が城神辺を切りとって、備中備前に至るまでなびかぬ武士はなかりけり」<大内義隆記>
- 1542年・天文11年
- 義隆の出雲遠征に従う。義隆の尼子晴久攻略に失敗後は尼子と誼みをもつ。(3月→)
- 1543年・天文12年
- 5月、出雲に侵入を計り元就と戦う。元就は、槌山城番、弘中隆兼と協力し、神辺城を囲む
- 1544年・天文13年
- 11月、尼子国久父子と共に、竹原城(広島竹原市)を囲む。毛利、弘中、隆景の反撃をうける。
- 1548年・天文17年
- 「天文17年6月、神辺の村尾城主山名宮内少輔理興を討つ」<平賀家譜、大内氏実録>
- 「備後国神辺城合戦之事。天正17年、備後国神辺城主杉原忠興宮内少輔を退治のため、大内義隆卿より陶尾張守隆房を大将として、防長の軍士五千余騎を差し向けられる。毛利元就、同隆元、吉川元春、小早川隆景、平賀太郎左ェ門等を加え八千余騎。6月20日に神辺に押し寄す。元春手勢六百余騎城際に押寄せ、在家を放火せらる。城中よりも杉原左ェ門太夫二百余騎突き出て元春勢と迫め合う。中興は千余騎にて城の後より勢を下し、元春の旗本に切りかかる。杉原盛重手負い少しく退く。・・・数刻迫め合いけるが、互いに屈して相引きにぞしたりける。平賀太郎左ェ門年来の遺恨ありけるが、その結根を散さんと思いけん。某申一人に仰せ付け給いてんやと、しきりに望み申すにつき、向城を築き、平賀を差篭め置いて惣軍陣をはらいて帰られけり。かくて平賀隆宗八百余騎を師いて向城に楯篭りたり」<陰徳太平記、巻17><安西軍策>
- 杉原寧子、この年尾張に生まれ、後に北政所となる
- 1550年・天文19年
- 「備後国神辺城明渡付目黒最後の事。去る程に、平賀、杉原、昨日今日と思いし中に、はや新王の年の三歳を戦い暮れしけれ共、早晩この城落つべしとも見えざりけり。しかる間、隆宗も術計盡」き勇気緩みて、今は天運に任せばやと思惟して、忠興へ使いを遣し・・・、未だ勝負を決せず、徒に歳月を送り、士卒或いは討たれ、或いは疵を蒙る者、若干と云うう事を知らず。かく士卒を労せしめ民を苦しめんより、我運を司命星に任せ、御辺の矢二筋受け申すべき間、中り候りなば隆宗が運の極みにて候うべし。若し射外され候はば、速やかに当城を明渡されそうろうへと云い送りければ・・・・天文19年10月13日、忠興、竜宗唯二人、城の尾崎へ出逢いたり。・・・・一の矢、鷹俣の以て刀脇指を射挟み太腹へしたたかに立ちたりけれ共、隆宗さる大剛の者なれば、二の矢射越させん為に、かく方便てぞ云いたりける。二の矢今度は隆宗が肩の上をする許りに射越し、後ろの石に中り・・・・同14日城を平賀に渡し、吾身は尼子を頼み、出雲にこそ越えにけれ。・・・尼子晴久は杉原忠興が城巳に難儀に及ぶ由其聞え有り、目黒新右ェ門秋光(一本に定以)に足軽五〇〇人相添え・・・目黒備州さして急ぎける所、路地にて忠興に行き逢い。・・・目黒御辺下城の上は、神辺に赴き平賀と合戦するとも、利を失うのみか、多くの兵を亡くして晴久に損させ申さんも益なかるべし、さりとて是より空しく引返さんは、御前に申しつる詞偽と成るべし、召し連れたる足軽共をば是より帰し、某計り神辺に立越え、平賀に検使一人請い、自害をこそ仕り候へけれとて・・・・目黒あたり近き禅院(龍泉寺)に入り、・・・腹十文字に切り破り・・・平賀、首をば故郷へ贈りけり。・・・」<陰徳太平記、巻18><安西軍策、巻2>
(このこと天文18年9月4日の説もあり)
- 1550年・天文19年 平賀安芸守隆宗(たかむね)
- 天文19年10月より神辺城主。天文21年(1552)8月3日、城中にて病死。「備後神辺城は、天文19年より弘治元年まで、平賀太郎左ェ門隆宗在城」<福山志料>
- 1552年・天文1年 平賀太郎左ェ門隆祐 隆宗の弟。天文4年(1555)更地として徳田村天神山城に移る。
- 1555年・弘治元年 杉原忠興
- 忠興、毛利に乞い、神辺にかえる。
「備後国神辺の道の上城主、杉原宮内少輔忠興は、一年平賀の為城を去って雲州へ立ち退き、尼子晴久を頼み居られるが、毛利、陶、矛盾に及びしところ、忠興、同苗播磨守盛重を以て、元就に申されけるは、忠興事元就に対して全く心疎を存ぜず候。其の儀は先年吉田御篭城の時節御存知候べし。その後大内勢某が家城を攻め候ひし比、元就公にも彼の催促に応ぜられ、御出張ひつるによって、一旦敵味方とまかり成って候。然るに今は早、陶と矛盾に及ばれ候間、忠興事御免を蒙り、再び家城に帰ることを得候はば、自今以後無二の御味方と成って忠戦を抽んづべく候と、懇款を尽して申し断られける間、元就、忠興は先年晴久吉田へ発向の時、城中へ使いを差越したり、其志忘るべきにあらずして、平賀隆宗に断り給い、忠興家城再入の儀を免さる。忠興弘治元年に神辺道上の城に帰り入り・・・・。
- 1557年・弘治3年
- 同3年の春に至って、中風発して、ついに卒去せられけり」<陰徳太平記巻2>
- 杉原盛重の子、重高は因幡国気高郡にて死す(現在の気高郡重高に墓あり)
- 1558年・永禄元年 杉原播磨守盛重
- 忠興嗣子なく、毛利により盛重継ぐ。
「忠興に実子なかりしかば、しばし家老共として彼の城を抱え居りたりしが、さる子細あって播磨守盛重、杉原の家督相続せり」<陰徳太平記巻32>
「永禄元年2月初旬、吉川元春、芸州新庄の日山の城に打ち出て、石見国出羽は着陣ありけり。・・・。杉原播磨守盛重、去んぬる正月、杉原の家督相続し、今度石見へ越え、備後国より八百余騎にて打ち出けるが、・・・」<陰徳太平記巻32>
「公は杉原四番の家老たりしに、忠興逝去の後実子なきに依って、相続の人を選ばれし時、隆景は当家第一の家臣杉原左衛文ノ進を以て、相続せしむべしと宣ひしか共、元春左右播磨守宜しかるべしと宣ひし故に、相続し給いぬ・・・」<陰徳太平記巻69>
石見国出羽に出陣。
- 1564年・永禄7年。 杉原播磨守盛重 尾高城に入り城を改築。後で居城となる。
- 1565年・永禄8年。 杉原播磨守盛重 4月17日、尼子の富田城を攻む。8月八橋城に入る。後で居城となる。
- 1566年・永禄9年。 杉原播磨守盛重 3月、亀井秀綱と夜見ケ浜に戦う。11月28日、富田城墜つ。山中幸盛 城にあり。
- 1569年・永禄12年 藤井能登守皓玄 盛重の毛利に従い九州に出陣中に、城を奪う。
- 「備後国神辺一揆の事:備後国神辺の城をば、山名宮内少輔氏政、当国の探題職に補せられ在城すといえども、去る天文7年の7月大内兵部卿義隆に誅せられ、その旧領近年杉原播磨守盛重に宛行はれける。然るに彼の宮内少輔が郎等藤井能登守入道、大江田隼人助浪々の身となり、是も久しく洛陽清水寺の傍らに隠れ、恨みを天に憤り蟄居せし処に、大江羽林九国を攻め、大乱に及びしかば、尼子孫四郎勝久、その虚に乗って義兵を挙ぐと聞こゆ。我もこの時一揆を催し、前代の所領を取挫んと・・・急ぎ織田信長へ参じ斯くと訴えければ、信長喜び給いて旧義を存ずるのみならず、・・・藤井、大江田、前代旧功の兵を催促せし程に、馳せ集まって二百余騎、その外事を招く為卒八〇余騎、備後国に馳せ下り、荘園百姓を駆り足しける。土民も流石旧恩をや思いけん、一万余人一揆蜂起し、6月18日神辺の城に押し寄せたり。城主杉原播磨守盛重は筑前国立花に在陣にて、城を相守る者僅かに三〇余騎には過ぎず、空しく城を奪われける。」<後太平記巻38>
- 皓玄、6月18日城に入る。8月3日奪還され、16日浅口郡大島にて自刃。
「広玄、当国の郷士等まで駆け集め、三千程の人数にて勃起し、神辺に押し寄す。」<備中府志>
- 1569年・永禄12年 杉原盛重 8月3日、城を奪還し入城する
- 1570年・元亀元年 杉原盛重 2月14日、尼子勝久を布部山に攻む。
- 1578年・天正6年 杉原盛重
- 5月、高倉山を夜襲す。5月14日上月城を砲撃する。6月21日、市川をはさんで秀吉勢と戦う。上月城落つ(7月5日)
- 1580年・天正8年 杉原盛重
- 6月、鹿野城を守る。7月秀吉勢鹿野を攻撃する。《幸盛寺に盛重土囲残る。また盛重荒神残る。》。8月八橋城に入る。
- 1580年・天正8年 杉原左京進 盛重、八橋城に居城し、神辺城城代となる。
- 1581年・天正9年 杉原左京進
- 盛重、戦傷のため八橋城にて歿す。《伯山町尾高、小鷹山観音寺にまつる》・・10月25日鳥取城落つ
- 1581年・天正9年 杉原彌八郎元盛 盛重の第1子、盛重を継ぎ城主となる。
- 1582年・天正10年 杉原彌八郎元盛
- 第2子景盛のため10月26日(または8月7日ともいう)殺される。城は毛利に収められる。《第3子を常佐という》
- 1582年・天正10年 毛利大蔵太輔元康 城主となる
- 1600年・慶長5年 毛利大蔵太輔元康 関ヶ原役後、毛利は減封、防長2カ国となり、元康城を去る
- 1600年・慶長5年 福島丹波守治重
- 正則の家老。「正則、関ヶ原役後、11月安芸、備後両国を賜い、安芸広島を居城とす。」<藩翰譜>神辺城代となる。
- 1619年・元和5年 福島丹波守治重
- 「正則6月参議従3位に上がりしが、広島の城を恣に増し築きて、天下の大禁犯すとして、6月2日領地をことごとく収公せられ」<藩翰譜>神辺城を去る。
- 1619年・元和5年 水野日向守勝成
- 8月、備後国福山10万石を領し、神辺城の諸櫓及び伏見城の一部をもって、深津郡野上村常興寺山に築城す。
- 1622年・元和8年 水野日向守勝成 福山城完成。これにより神辺城は廃城となる。
杉 原 勇 三(高知市)、昭和41年(1966)2月とりまとめ。
写真および HTML 化は、杉原尚示 97年11月です