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刀の研師、『杉原光州』さん
 倉敷市街地の西部、最近「イオン」という大ショッピングセンターができたあたりに、「八王寺町」というところがあります。ここは倉敷市でも有力といいますか、数軒の杉原さんがまとまって住んでおられるところです。田の地区にも「八王寺杉原の出だ」という家も何軒かあるようです。
 今回出版しました「杉原家の人々(全国版)」を持ってこの八王寺の杉原さんにおじゃましました。
 ところがそこで大変な人に出会ってしまったのです。日本刀の研師(とぎし)で刀剣審査員もつとめた「杉原光州さん」です。  で、早速インタビューへと話しを進めてしまいました。  なにしろ、「研師」という世界が今あるということさえ知らなかった私です。とんちんかんになるのはお許しいただきたいと思います。

[昭和48年新渓園(倉敷)にて]

”刀”が好きで好きで
 「いつごろから”研師”を始められたのですか?動機みたいなのがありましたら。」
 『いえね。それまで勤めとったんですわ。で、刀ががむしゃらに好きでしてね。でも刀をよう知るには、研ぎをやらんといかんということで、研ぎを始めたんです。刀の地金までわかりますのでな。』
 『ところが戦時中のことでしょう。戦地に行く前に軍刀を研いでくれという話しがあって。それから伝え聞いたんでしょう。次から次へと研いでくれということになりましてなー。そのうちとうとう研師になってしもうたんですわ。』
 お歳(失礼、86歳だそうです)ににあわず精力的な光州さんは、ここまで一気に話されました。
 部屋のかもいには「奥伝位待遇」という賞状がかかっています。
 『本格的にやりだしてからの先生は、前の人間国宝本阿彌白洲です。それから戦後になって日本刀と一口に言っても軍刀と名刀とを区別する必要があるという話しがあり、私も登録審査委員を最初からやりましたんです。昭和の終ごろまでやっとりまして、まあ歳になりまして返上しましたが。研師もそのころまででした。』
 残念ながら当時の研ぎ台など道具類は残っていないということで、資料として「研ぎ」をテーマにした本をみせていただきました。

日本刀は芸術品です
 『日本刀は戦後になっていろいろ言われましたがねー。私は世界に比類の無い芸術品だと思っているんです。もともと護身用ですしね。』
 『研師というとみんな大昔にかえったように思ってびっくりするでしょう。』
 『でもこの姿、姿が第一です。刀の姿を見ていつ頃の物だということもわかりますし。上位の刀は見れば誰の作かもわかります。』
 信念をこめて語る杉原光州さんの姿は、まさに”匠(たくみ)”の姿そのものでした。
 『日本刀1本研ぐのに1週間は十分かけるんです。砥石も7種類ありました。相当がんばっても年に50本もいきません。前は弟子2人と3人で研ぎよったんです。』
 『そうそう、たくさん注文がきて、40数本も預かっていた刀を泥棒が入って全部盗まれたことがありました。あの時は困りましたねー。』
妖刀「村正」、実は名刀
 岡山県は「備前長船」という有名な日本刀を産出したところでもあります。
 「どんな刀を研がれたんですか?。」
 『そりゃあ、あらゆるものを研ぎました。村正とか、虎鉄、長船や関ものとか・・・』
 「えっ、村正というとあの妖刀村正??」
 ああ、なんとミーハーな私でしょう。ついこんな質問を発してしまいました。
 『妖刀なんかじゃあないんです。村正は名刀ですよ。あれは家康が戦場で怪我をした相手の刀が、たまたま村正だったということであんなふうに言ったんです。私はどういうわけか村正を研ぐチャンスが多かったです。あれは3代くらいあるんですが、名刀ですよ。』
 まるで名刀村正の光が宿ったような目をして話される光州さんの迫力に、圧倒されっ放しの私でした。ありがとうございました。(2000、3)
PS:後日、前のお弟子さんで現役の研師という「片岡澄夫」さんに無理をお願いして、刀の研ぎの様子を撮影させていただきました。片岡さんは現在岡山県ではただ1人の「美術刀剣研磨技術保存会(研保会)」の会員で、先日はイギリスの大英博物館所蔵の日本刀の研ぎを何本も依頼されて研いだばかりだそうです。ちょうど岡山県立博物館に展示中の大刀も先日研いだというお話しもうかがいました。ここでも日本刀の見方などいろんなお話しをしていただき、私も勉強になりました。ありがとうございました。(2000、3)

PS2:さきの「研保会」名簿には兵庫県に「杉原弘さん」が載っています。また機会があったら取材したいと思います。

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