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蛤御門の変で切腹した国司信濃も、元杉原さんだった

 明治維新の前夜、3家老の一人
 私の友人に国司(くにし)さんという方がおられます。あるとき先祖話になりました。すると、「私の先祖は、長州毛利藩の家老で、蛤御門(はまぐりごもん)の変(京都)で兵を率いて戦い、その責任をとらされて切腹させられたんですよ。」といわれるのです。その時は「へー」というだけで特に気にしていなかったのですが‥‥‥。

高洲家から養子に
 今回山口取材にあたっていろいろ調査をしていますと、「国司信濃、長州藩家老。1842年、長州藩士・高洲元忠の6男として生まれる」とあるではありませんか。なんとこの友人の国司さんのご先祖様は、元杉原さんだったのです。
前回のレポートでも報告しましたが、萩藩の「高洲(高須)」「木梨」「杉原」3氏はみな、備後の杉原氏が江戸初期に萩に転居した際に名乗った名字なのです。
 明治維新の前夜、長州は京都に兵を送って蛤御門の前などで会津軍などと衝突します(蛤御門の変または、禁門の変)。戦い利あらず長州は敗北し逃げ帰るのです。そして事態は幕府による長州征伐へと発展します。
 長州としては何とか幕府の怒りを静めないと滅亡と言うことになりかねません。考えた末、上京軍の指揮を取った3家老(国司信濃、福原越後、益田右衛門介)に責任をとらせ、切腹させてその首を差し出すということになります。
 この元杉原さんの「国司信濃守」は若干27歳(一説では23歳)でその生涯を閉じてしまったのです。

凄惨な自刃
 萩の東光寺、毛利家の墓所の前にこの3家老の墓がありました。おりよく団体の観光客がおられ、ガイド嬢が説明されておられました。
 「なかでも国司信濃の自刃は凄惨を極めたと言われております。腹を切ったあとに首に刀をつきさし、左手を添えて前に出して、気管を掻ききるということになったそうです。藩主の命で軍を率いて戦ったのに、戦いが終わったらその責任をとらされて切腹とは納得できないと、抗議の意思がそのような行動をとらせたのだと言われております。」
 す、すごい場面です。ここでは150年もの間、このようなことが語り伝えられているのでしょうね。

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