「杉原盛重」に異説!
干拓地の杉原さん

 岡山市の南西部に広がる広大な干拓地。かっては吉備の穴海ともいわれ、東西の海上交通の要所であったところ、各種の伝説の地でもある。
 今では広大な干拓地にかわり、わずかに人造湖の児島湖が残るのみとなっている。その一角、ほぼ中心部の、岡山市興除地区に「杉原盛重」(戦国武将)の子孫という「杉原誠」さんをたずねた。

 「私ところはなー。毛利の家臣としてもみじ山(神辺)の城主をしておったんじゃが、有名な高松城の水攻めのとき、作戦として秀吉の退路を断とうということで、福山から新見、津山とまわっていっていたんです。そうした間に、清水宗治の自刃があってしもうて・・。当時毛利は裏切られたと感じて、神辺城を攻めたんですわ。それで、やむなく尼子を頼って、大山寺へしばらくおったんですな。
 尼子では外様ですから、つまらんから帰農しようということになって、今の岡山県小田郡の、新山村に土地を買って出たんです。そのあと、興除の開墾のとき、15町歩を買って移ってきたんですわ。」古武士のような風貌をもつ、「誠」さんの話は続く。

 「あの前の家が本家で、あそこに古い塀が見えるでしょう。あの塀のむこうが大名用の便所で、当時は大名扱いだったので、高いところへ便所があって、(便を)したらずっと下のほうで、すぐくみ取るようになっておったそうです。」

 杉原盛重については、元福山市長の立石さんの著作で、若干の知識があった私でしたが、立石さんの「毛利方の総大将として、尼子を攻めた」という記述とはあまりに違う内容にめんくらってしまった。話はなおも続く。

 「18町歩の年貢は、倉に入りきらんでしょうが。それで、彦崎の浜の倉庫から川船で積み出したそうです。私の伯父の鷹太郎が、私ところの杉原の先祖をたずねて神辺まで行って調べてきましたんじゃ。系図やお寺の過去帳もありますよ。」

 しばらくして出てきたのは、古い和紙に書かれた代々の「家系」。

 杉原匡信ーー左京進ーー盛重ーー元盛ーー理興  と続き、その後が 長衛門ーー保兵衛(この名が4代)ーー紋兵衛・・・・となって、当の誠氏まで、続いているのである。立石氏の著作でおなじみの名が並んでいるのではあるが、順番がちょっと違っていたりする。立石説では、「理興」は盛重の前の神辺城主で、盛重はその四番家老であったことになっている。うーん。どうなっているんだろう。理興が複数いたのかもしれない。
 過去帳にも、盛重以下の名が並び、家臣団の名簿まであるのである。「大名便所」といい、状況証拠には事欠かないようでもある。

 岡山市中畦の「杉原誠」家は、古くから「醤油の醸造業」(マルボシ醤油・杉原醤油店)を営み、興除地区では名門のようである。興除地区が干拓されたのは、文政4年(1821年)から明治10年頃にかけてと記録にありますが、そのころに岡山県西部から出てきたこの「杉原家」は、戦後になっても「誠」氏の父「美作」氏が、5期20年以上にわたって「興除村長」をつとめ、「誠」氏も議員を長くつとめている。

 「むかしはなー。8石とか6石の釜で、醤油に火入れをしていたもんですがなー。そのときは杜氏が四日もかかって仕込んどったんですよ。今は企業合同とかで、大きな釜でまとめて仕込むようになりましたけれどもなー」杉原誠氏の後ろには、今は使われなくなった大きな醤油樽がいくつもつらなっていた。('97,3)

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