杉原盛重は山中鹿之助の好敵手の巻

 戦国の世、広島県東部、備後の国に「杉原播磨守盛重(もりしげ)」という 武将がいて、波乱の生涯を生き抜いています。

 室町以来、尾道の木梨の庄を本拠とする杉原一族がいました。、その一族の 出の盛重は、当時の備後の主要な城であった神辺城主となり、備後一円の中心 的武将でした。
 その後毛利の山陰方面の総大将格として尼子と戦い、尼子の大将、有名な山 中鹿之助らと、山陰各地を転戦しました。そして永禄九年、足掛け5年の戦い の後、ついに尼子家の本拠富田城が落ちました。杉原盛重はその後の毛利方の 山陰経営の責任者として、八橋城、尾高城にいました。

 尼子滅亡後も山中鹿之助は何度も再起をはかり、盛重といわば宿命の好敵手 として、何度も対決しています。この対決はついに毛利と織田(羽柴)との戦 いとして続き、山中鹿之助は毛利方にとらえられ殺害されてしまいます。
 三日月に祈った風雲児、山中鹿之助はついに尼子家再興の悲願をはたせず散 ったのでした。
 秀吉の中国攻めは、鳥取城の兵糧攻めから、高松城水攻めへと続くのですが、 鳥取城落城直後という時期に、鳥取県の八橋城で病の床にあった「杉原盛重」 は病死しています。「因伯の神辺殿」といわれた盛重の最後でした。

 なお、杉原盛重のことについては、元福山市長、故立石定夫氏が詳しく調査、 その結果を自費出版されています。また、この盛重の子孫といわれる杉原家が、 岡山市興除地区に数軒あるようです。

参考文献:「杉原盛重」(立石定夫)

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