瀬戸内三十三観音23番能満寺、広島県のJR福山駅前から西へ少し行ったところでした。こじんまりとたたずむお寺さん、脇仏のお地蔵さんが県の重要文化財・・・。と思っていたら意外なことが書いてあったのです。
『もと現在の福山城のある丘陵にあって(略)、鎌倉時代には守護職として備後に来た杉原伯耆守光平の菩提寺となり伽藍を再興して栄えたという』(瀬戸内三十三観音めぐり・片山新助より)
な、なんですって。杉原さんHP作者の私としては、思わず興奮して深い取材をしたくなるではありませんか。
ご住職がおっしゃいます。「福山城築城のとき、(このお寺さんが)まず裏鬼門の現在地に移されたそうです。そのため現在の福山ではもっとも古いお寺なんです。福山戦災のとき市街地で唯一焼け残って、福山駅に下りたら能満寺が見える状態だったそうです。」
「ここらあたり(福山)は中世の歴史がないところです。でも杉原光平のほか鎌倉時代には、杉原信平・為平兄弟がこの寺に寄寓していたことや、当時の住職直観が2人の伯父あるいは大伯父だったことなどが伝わっています。」
「寺紋も当時の杉原氏と同じ『剣巴』です。」
「杉原信平・為平兄弟は、足利尊氏に加わり九州で手柄を立てて、近くの木梨庄などをもらったそうです。」
「でも今では当時の記録もなく、お見せできるものがないのが残念です。」
「脇持は室町時代だそうですが、秘仏のご本尊も室町時代に力のある人が作ったものだと言われます。そうすると杉原氏のものと・・・。」
私にとってはそれで十分でした。備後の杉原氏については、まだまだ深い話題が残っているようなのです。す、すごいです。
どうやらこのお寺さん、平安から鎌倉・室町にかけて備後の杉原氏とともに栄えてきたようなのです。私としてもあだやおろそかには出来ません。ということで、このHPになりました。
「移築が完了しない元和6年夏(1620)大洪水にみまわれ、堂宇すべてを流され、その後再建はすすまず、昔の1/10の規模のまま今にに至っている。」
江戸時代に入りますと、備後の杉原氏は毛利の支配の中で、すべて萩(山口県)に集約されます。というわけで残されたこのお寺さんも苦労が絶えなかったようなのです。
こうして手を合わせていますと、古代の杉原光平や、中世の信平、為平兄弟の顔が浮かんでくるようです。
ご住職に無理をお願いして、本堂の中を撮影させていただきました。本尊は30年毎のご開帳だそうです。次回は20何年かさき、そのころにはこのHPはどうなっているでしょうね。(2005,6)