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出雲市東部の杉原さんは、同族結合の強い一族でした
出雲市大津町、雲根神社の宮司さんから
 『ここの地域には3つの有力な氏族があるのですが、そのなかでも特に杉原氏は結束の強い一族でしてね。毎年正月の2日と盆の14日には、分家はそれぞれその直接の本家へ年賀あるいは盆礼に行く。するとすべての分家からのそれを受けた本家は、その後さらにその本家に行く。孫分家から総本家に行くということはしない、という慣行を守っているといいます。かっての同族荒神信仰の名残ではないかと思うのですが。この地域では「カブ」と言っていますが、杉原カブのそれは同族のつながりをまだ色濃く残しているんです。』
 ここは出雲市の東部、斐伊川の堤防に近い大津町というところにある雲根神社です。ここの宮司さんは、戦後の島根県の文化財行政で重きをなし数々の著作のある石塚尊俊さんという方でした。実はこの大津町の杉原さんから「石塚さんがこの地の杉原姓の歴史に詳しい」と聞いてお訪ねしたのです。傍らにはその石塚さんが中心になって最近編纂された「出雲市大津町史」というぶ厚い本がおかれています。冒頭で話された内容もその本に詳しく書かれているのです。石塚さんはさらに続けます。
大津町は西谷墳墓群の隣でした
 『江戸時代の元禄の前くらいに、今の出雲市の中心部、塩冶(えんや)というところから、山越えして杉原氏がこの大津の地に出てきて、山の上の狼谷というところへ居を構えてここを開拓したんですね。そしてその本家から次々と分家が出来て、下の今の平野部を開拓して行ったようなのです。』
 地図を指し示していただきました。おや、最初に杉原氏が出てきたという土地、その横に書いてある文字は「西谷墳墓群」ではありませんか。考古学も趣味の私にとって、出雲地方で忘れられない地名です。弥生時代の出雲を代表する「四隅突出型墳丘墓」であまりにも有名な土地なのです(右は西谷3号墳)。たちまち私の頭の中には、「弥生時代の荘厳な墳丘の横に立つ杉原氏」なんて構図が浮かんでしまいました・・・・・・・てなことはないですよね。杉原氏がここへ出てきたのは、2,000年前ではなくて、300年余り前のことなのですから。トンデモ説失敗の巻きでした。みなさま、ゴメンナサイ。
 でもさすがに戦後の島根県の文化財行政を取り仕切ってこられたと言う石塚さん、杉原姓そっちのけでしばし”西谷墳丘墓”や”神庭荒神谷遺跡”の話題が私との間にとりかわされてしまったのでした。いろんなご教授ありがとうございました。

日清戦争の現地からの貴重な手紙が
 え、肝心の杉原氏はちゃんと取材したかって?。ええ、もちろんですよ。出雲市大津町杉原氏の総本家という杉原敏忠さんをお訪ねして、まる一日つきあっていただきました。ここでも「ありがとうございました。」
 この日、出雲市塩冶から出てきて大津町の山の上に居を構えていたという大津杉原総本家の杉原敏忠さんを、あつかましくもその職場にお訪ねしてしまったのです。
 で、まずお聞きしたのが石塚さんから教えられた盆正月の儀礼のことです。
 『ええ、そうです。そのようにやっていますが、どこでもそうじゃあないんですか?私は当たり前のことだと・・・・』
 まあ、なんと総本家のご当主はサラリとおっしゃったのです。さすが!というべきなんでしょうね。
 山の上の住まいは昭和39年の災害のあと平地へ移されたとか。今では閑静な大津町の一角に居を構えておいででした。  『お寺は塩冶の神門寺です。そうそう、石塚さんが大津町史をまとめるとき、私の家の明治の文書に興味を持たれたんです。我が家では日清戦争で戦死しているんですね。そのとき、杉原助市二等卒が戦地から我が家の実兄杉原熊太郎宛に出した手紙が残っているんです。すごいことに、巻紙に毛筆でちゃんと書かれているんです。戦地からの手紙としては驚くべきことのようなんですけど。』
 日清戦争での戦死者は珍しかったらしく、この杉原助市2等卒については、島根県知事の悔やみ状や、出雲大社による慰霊祭、郡からの弔慰金、さらに旧藩主松平伯爵からの弔慰金まで届けられ、華族や皇族からの悔やみもよせられ、ついには忠魂碑まで建っているのです。
 この大津杉原家の元々住んで居られたところは、さきの「西谷墳丘墓」があるのはもちろん、江戸時代には斐伊川から農業用水を取り入れる”来原岩樋”という樋門が切り開かれたり、古くからこの出雲平野にとってまことに重要な位置を占めていた所だったのです。
 ちなみにこの杉原家の家紋は「九枚笹」といって、笹の葉が九枚組み合わさった紋で、塩冶の杉原さんの紋と同じものでした。(2000,11)


左:神門寺   右:日清戦争の戦地から届いた毛筆の手紙

 

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