ドイツ文学の杉原重治教授


 「人間は永遠に無際の宇宙からみると、時空間的に単なる塵にすぎず、人生五十年など取るに足らないものだ」と高等学校時代に哲学をかじった友人が私に私に云った。当時ニヒリスティックなものから脱却しつつあった私は答えた。「人間は確かに塵だ。だが、単なる塵ではない。星を見、星を魂の奥深く感じ得る塵だ。」と。
 結局、その後いろいろと私の思想は変化発展しながらも、当時のこの物の感じ方、考え方は、私の思想の根本基調となり、今も変わらない。」(「生の肯定」杉原重治遺稿集より)
 かって、岡山大学に杉原重治教授というドイツ文学の権威がおられた・・・。という話を頼りに訪ねたのは、岡山市東部、とある小高い丘のうえにある高級住宅地であった。
 応対していただいたのは、「私は娘です。父のことは、たくさんの教え子のかたがいましてねー。でも生徒さんたちももう60以上になってしまいましたんですがね。」という上品なご婦人であった。

 「うちは大阪出身なんですよ。元は木綿問屋で、『袴屋』といったようです。祖父がアメリカに単独でいきまして、ずいぶん成功して貿易をやっていたんです。それで父重治も小さいときはアメリカで育って、小学校は名古屋。中学は大阪の旧制北野中学。そして岡山の第六高等学校(今の岡山大学)のあと東大というコースでした。独文でしたから、ドイツへ留学したあと、旧制富山高校で教鞭をとり、母校の六高にきたんです。それが学制改革で岡山大学となり、(昭和42年に)なくなるまでいたわけです。」

 昭和42年に岡山大学法文学部長で、現職のまま亡くなられた杉原重治教授は、学部葬になったそうである。富山、岡山と教え子は多く、今でも連絡が絶えないとか。山陽新聞社刊の『岡山県歴史人物辞典』によると、「ドイツ文学の研究や教育に情熱を燃やし続けた。特にドイツの哲人ニーチェの研究や現代ドイツ語音声学の業績は学会でも高く評価されている。天馬空を駆けるがごとき豪放らい落な気性を慕って集まった多くの学生とともに旧制高校独特の「酒と歌の青春」を謳歌した」とある。

 その点をうかがってみた。「ええ。わりとすきに自由に生きた人だから、エピソードにも尾鰭がついて・・・。あまりかまわない人で、町で娘の私と会っても気がつかないで通り過ぎたりして・・。アメリカなんかでのびのび育ったせいかしら。六高のオーケストラでチェロをひいたり、油絵を描いたりもしていました。きのうまで、教え子の方々の絵画展が東京銀座でありまして、私も招待されまして行ってきたんですよ。」

 みせていただいたアルバムには、チェロを弾く杉原先生や、オーケストラの写真。そして富山の絵画部が野尻湖で合宿したときの様子などが写っていた。
でも、先生の写真が、私の伯父の「喜士夫」にあまりにもそっくりなのには驚いて、インタビューの間中その写真をちらちらながめてしまいました。ここでも「杉原顔」に出会ってしまったようです。(’97、3)


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