戦後考古学の巨人、「杉原荘介」
私も若い頃から考古学には興味を持っていました。しかし関連の本を買って読んだり、博物館めぐりをするようになったのは、ごく最近のことです。
そうすると、いやでも「杉原荘介」という名を目にするようになります。戦後考古学の巨人ともいえる人で、明治大学文学部の教授として、幾多の発掘、研究に携わったということです。
特に有名なのが、「日本にも旧石器時代があった」ことを決定づけた、群馬県の「岩宿遺跡」の発掘のことです。
「昭和49年、(発見者)相沢忠洋からの通報をうけた、杉原荘介を団長とする明治大学考古学研究室による岩宿遺跡の調査の結果、その当時縄文時代最古の土器とされた稲荷台式土器を包含する黒土層の下位にある、関東ローム層中から出土層位を異にする二つの文化層(岩宿1、岩宿2文化)を検出し、縄文文化に先立ち土器や石鍬をともなわない石器文化が日本列島にも存在したことを、科学的な手続きを経て初めて明らかにした。
杉原自身『石器や剥片は明らかに人類の加工したもの、その出土層は地質学者がこれまで洪積世(更新世)と考えてきたものであることによって、明らかに旧石器であるといえよう』と述べ・・・」(「アサヒグラフ別冊、戦後50年古代史発掘総まくり」より)
ところが先日、福井県今立町の杉原さんを訪れたおり、杉原荘介さんの父上がこの杉原家の出身であることを聞かされ、「考古学者・杉原荘介」という本まであることを知らされたのです。さっそく明治大学に問い合わせたのですが、この本はもう余部がなく、一部分をコピーしてお送りいただきました。そのなかから「人間・杉原荘介」のエピソードをいくつか紹介したいと思います。。
- 「私が入学してまもなくのことです。あそこに立っていたんです。そうしたら誰かが『あれが杉原荘介だ』というんです。僕は杉原荘介の何たるかを知らなかった。階段をあがっていく(同じ学生の)後ろ姿を、誰かが指して「あれが杉原荘介だ」と言った。昭和18年4月のことです。あの人は偉い学生で、間もなく「原史学序論」という本がでるのだという。驚いたね。今みると杉原さんはそれまでに48の論文を書いておられますな。で、学生の時に2冊の本を出している・・・。」
- 「24年に新制大学が発足して、(略)杉原先生はそれこそチャキチャキの青年将校といった感じだったですね。それで登呂をやり、岩宿をやり、はりきっていました。」
「登呂をとにかくまとめあげて、世に出そうということに、大変な情熱を傾けて・・・」
- 「よその大学の先生が、私なんかに、杉原先生は元気ですか、と聞くときに『旦那元気?』といいますからね。(略)旦那風情というものが、かなりあった。」
「遊びながらも、学問はぴしっとやるというような。あれは、やはり日本橋あたりの旦那衆の考え方でしょうかね。」
「考古学の充実のためには、とにかく命を賭けてやったということだから、われわれ学生にたいしても非常に強圧的というか、ぶつかってくるわけです。で、ひどいじゃあないか。われわれ学生は人夫じゃあない。杉原商店の紙屋さんの社長かもしれないが、われわれは紙屋さんの小僧じゃあないと思うんですが、先生はそういうのがわかるんですね。そうするといっぱい飲もうということで飲ませてくれる。それで終わっちゃうわけです。三十何年間・・」
- 「実は私は、高校生のときに杉原先生を見ているんです。平坂貝塚です。(略)復員帰りの人たちが掘っているんですが、適当に手を抜いているんですね。ところが杉原先生はソフトをかぶりまして、三つ揃いのスーツ姿。当時は敗戦後ですから、スーツが珍しいわけです。そのスーツのズボンにゲートルを巻きまして、夢中で掘っていらした。(略)
驚きましたねー。大学の先生というものは、もう少しちゃんとした格好でいるものかと思ったら、紳士だか、土方だかわからない格好で、貝塚を掘っている。みんな休んでいるのに、一人でほっているんです。」
<略歴>
- 大正2年(1913) 和紙商の子として、東京日本橋小舟町に生まれる。
- 昭和7年(1932) 千葉県飛ノ台貝塚発掘
- 18年(1943) 明治大学専門部文科を主席で卒業。11月応招。終戦時は上海。
- 22年(1947) 明治大学専門部文科講師。静岡県登呂遺跡発掘。
- 23年 日本考古学協会登呂遺跡調査特別委員会実行委員。
- 24年(1949) 明治大学文学部助教授。群馬県岩宿遺跡発掘。
- 25年(1950) 神奈川県夏島貝塚発掘。(br>
- 27年(1952) 明治大学考古学陳列館開設。初代館長。
- 28年(1953) 明治大学文学部教授。『登呂』全2編編著完結。
- 31年(1956) 『群馬県岩宿発見の石器文化』出版。
- 34年(1959) 夏島貝塚出土土器、世界最古との放射性炭素年代測定結果届く。
この間、発掘、出版多数・・・・。
- 43年(1868) 文化庁文化財保護審議会専門委員。
- 53年(1978) 勧告ユネスコの招きで、日刊考古学シンポジウム(ソウル)に参加。
- 58年(1983) 死去。享年69歳。
*参考文献 「考古学者 杉原荘介」(明治大学考古学研究室)(1984)。「駿台史学」第60号(1984)。
◯ リンクです。 六爾さんのホームページ「杉原荘介記念室」
考古学者の、森本六爾博物館や、相沢忠洋記念館などをつくっておられます。そのうちの「杉原荘介」のページです