「杉原紙研究所(兵庫県加美町)」訪問記

 岡山から山陽自動車道を一路東へ。姫路東インターから播丹自動車道にのりかえて、さらに北へ。神崎南で降りて、今度は東へ道をとる。

 山を1つ越えた東側の谷が、加美町であった。中央を「杉原川」が流れ、「杉原谷ともいう。
 最近は日本中どこへ行っても、同じようなJAの建物があり、コンビニがあり、ガソリンスタンドがある。景色はみごとに統一されてしまったように思う。本来なら「山深い」とでもいうようなここ「杉原谷」も、一見同じような景色が車窓に流れていく。ただここいらは、吉備高原のなだらかな山波にくらべて、山々が急峻なような気がする。「杉原紙」がこの広大な谷一帯で漉かれていたという、中世の頃の景色はどのようであったのであろうか。
 加美町の中心部から、国道427号線を北へ。すると、「杉原」という地名が見えてくる。「さあ着いたか?」と聞いてみると、「まだ6~7キロばかり奥だよ」という返事。その酒屋には、「杉原紙の郷の地酒、”杉原川”」といった張り紙があった。

 谷が次第に深くなり、集落が途絶えがちになってきたころ、突然それは出現した。
 「道のえき”かみ”」という大看板とともに、真新しい木造の大きな建造物。最近あちこちに出現している「道のえき」の1つのようで、レストランとみやげ物店がペアである。この日は、青空市も開かれていて、人が集まっていた。めざす「杉原紙研究所」はその裏手にあったのである。
 杉原川にかかる橋を渡っていくと、「道のえき」と谷川をはさんで対象的に配置された建物につく。なんと新築なのである。以前に見た、「杉原紙研究所」の写真よりはるかに立派なものに建て替わっている。
 「杉原紙研究所」を建て替え、ついでに??、「道のえき”かみ”」までつくってしまった、加美町の勢いに、入り口から圧倒されながらの見学になった。

 「杉原紙発祥の地」の碑などをながめながら、研究所のなかへ入ると、まず目につくのが、玄関の周辺にかけられた書の数々。そして小学生などの画である。みなここで漉かれた「杉原紙」をつかっているのであろうか。
 「見学ホール」という看板の下では、おりよく若い女性が紙漉きをしているのを見ることができた。天井の竹からつるした木枠にすのこを敷き、和紙の原料がのり状になったものの入った水槽の中を、二度三度とくぐらせる。均一に材料がすのこの上に乗ったところで引き上げ、後ろ側に積み上げて行くのである。まことに手際よく作業がはこんでいる。積み重なった和紙は、翌日絞ってから一枚づつはがし、天日で乾燥させるのだそうだ。

 突然奥で、ドンドンドンドン・・・という大きな音がしはじめた。絶え間無く続く。何事かと奥へ奥へと行ってみると、臼のようなものの中に、木の皮のようなものが入り、それを上から枠のようなものでたたいている。モーターで枠を上下して、すこしづつ回転させながら均一にたたいていくのである。「うーん。ああやって材料を柔らかくするのか・・・」
 すぐ横には直径が1.5メートルもあろうかという巨大な「釜」がすえられている。そして様々な設備。どれも、モーターやガスボンベを除けば、中世の紙漉きを再現したかのようである。感心していると「玄関横のビデオをどうぞ」と係りの女性の声。
 「杉原紙」の製造過程を要領よくまとめたビデオであった。「紙漉き」というと、水槽の中ですのこを動かすこと・・と思いがちだが、材料のこうぞを育ててから、皮をはぎ、そして・・。と紙一枚ができあがるまでに、年間を通じて十数工程もの作業が積み重なるのである。

 ここでは常時数人の人たちが作業に従事しているようであった。原料のこうぞなど、町全体で「一戸一株運動」までして植え付けをふやしているとか。よくこのようなものを復興させたものである。
 同行した私のつれあいなど、早速今書いている書を「杉原紙で」と思ったらしく、「2尺6尺といった大きな紙はありませんか」などと尋ねていた。残念ながら、「75cm×135cmの全紙がここで漉く一番大きな紙で、一枚750円です」という返事であったようだ。

 今ここでは、年間650~700キロの杉原紙が生産されていて、隣の「道の駅」ではふつうの和紙だけでなく、封筒、便せん、色紙、懐紙入れ、しおり・・・と様々に加工されて売られていた。
 兵庫県重要無形文化財。兵庫県伝統的工芸品にそれぞれ指定されており、昭和60年夏、神戸市で開催された「ユニバーシアード大会」では、表彰状として世界153カ国の若者の手にわたったという。また小中学校の卒業証書としても使用されているという。

 「ここの春蘭って、よく咲いているねー」などとも感心しながら、4月下旬でも桜の咲き乱れる「杉原谷」をあとにしたのであった。

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