教科書にのった、杉原紙

1、はじめに

 娘の高校卒業にともなって、不要になった教科書「日本史」(山川出版社)が、こちらへまわってきた。ぱらぱらと読んでいると、「中世」「産業の発達」のところで、「地方特産品としては、(略)、播磨の杉原紙(すいばらとふりがなあり)、(略)、備前の刀、(略)などが特に有名であった。」というような記述が目に入った。
 そういえば、以前娘が言っていたっけ!。
 とにかく中世の播磨では、「和紙」それも「杉原紙」という名の和紙生産が、1、000年近い後世の教科書にのるくらい盛んだったのである。

2、天平、奈良の「播磨紙」から、平安の「杉原紙」

 和紙の起源については、諸説あるようであるが、「610年に、高麗から来日した、曇徴が伝えた」というのがある。しかしこれ以前にも日本に紙はあったようで、邪馬台国からの上奏文があったことをはじめ、3世紀、4世紀、5世紀の記録には、紙の存在をうかがわせる記録は多い。
 奈良時代の最盛期「天平文化」の時代においては、写経が活発に行われ、紙の需要が急増しているが、このとき播磨は紙(写経用紙)の特産地として知られ、当時の紙の中央への納入量は、全国一であった。このときの紙は、今正倉院に大量に残っている。
平安になると京都では、東北産の「壇紙」と播磨の「杉原紙」が珍重され、文献上も「杉原紙」という名がはじめて登場している。

3、鎌倉・室町の「杉原紙」

 平安時代には、まだ京都の一部の貴族に愛用されていたのみであった「杉原紙」であるが、鎌倉時代になると、鎌倉でも武士のあいだで広く使用されるようになる。産地は播磨の杉原谷(現在の兵庫県多可郡加美町)で、その名をとって「杉原紙」と呼ばれたようである。
 足利幕府が京都におかれると、「杉原紙」は武家、公家、そして、寺院においても、わが国の代表的な紙として、盛んにもちいられるようになる。紙といえば「杉原紙」という時代が続いたのである。

4、江戸以降の「杉原紙」

 江戸になると、「杉原紙」はもう播磨特産でなくなり、全国各地で紙(杉原紙)がすかれるようになる。そして、そこここで、「杉原」という地名があらわれるようにもなるのである。杉原紙は古来から名を知られた優良紙の1つであったが、ここに至って、「品種」すなわち和紙そのものの呼称となったのである。「備中杉原」「但馬杉原」「加賀杉原」「越前杉原」「土佐杉原」といったのが、紙の名前になったのである。
 「杉原紙」は、明治年間までは「杉原谷」でもすかれたが、その後次第にすたれて紙をすく人も絶えてしまっていた。
 現在では加美町の村おこしで、「杉原紙研究所」がおかれ、「杉原紙」の再生がはかられている。

5、「すぎはらのかみ」「すいばらかみ」??

 冒頭にも紹介したが、「すいばらかみ」という呼び名がある。
 杉原紙の最初は「椙原庄紙」(すぎはらのしょうのかみ)であった。それが平安末期に「杉原」(すぎはら)となったようである。そして普通「すぎはら」と呼ばれて今日にいたっている。それが全国にひろまるにつれ、「すいばら」「すいはら」「すぎわら」などと様々に読まれるようになっていったのである。
 地元播磨では、「杉原」は「すぎはら」であり、他の読み方はない。
 「すいばら」は、新潟、福島などに多いようで、あちらでは「杉原」と「水原」の転化がみられるようである。

 6、「杉原谷」

  兵庫県の加古川市を流れる、加古川。その上流に「杉原川」という支流がある。その一帯を「杉原谷」という。多可郡加美町である。杉原紙発祥の地であり、近々訪問して、リポートする予定にしている。

(参考文献「杉原紙」藤田貞雄著)

「杉原紙研究所(兵庫県加美町)」訪問記
杉原吉直さんの、「和紙のホームページ」

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