発掘!! 杉原氏研究家の力作

『 椙 原 物 語 』

杉原安人著 昭和49年

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杉原姓に関する出版物では、「杉原盛重」(立石定夫)、「八ツ尾山、杉原城主記」(杉原茂)、「杉原一族」(日本家系協会・武田光弘)などがあります。今回の調査の中で、広島県尾道市の故杉原安人氏が、御自分の長年の調査と研究の結果を原稿にまとめてあるのがみつかりました。約5、500字にものぼる力作です。そこでご遺族の了解を得まして、このホームページ上で公開することにいたしました。尚見出しは、私、尚示がつけさせていただきましたが、あとはできるだけ原文に忠実に再現しました。また、文中「椙原」は原文のままで、「杉原」と同じ意味につかわれています。(杉原尚示)
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1、はしがき
 毎年旧暦十月晦日、先祖祭が近づくと、私達先祖のことをもっと詳しく知りたいと思ったのは年久しい事でありました。
 私は病気になり暇な体になりましたので、日本外史、陰陽太平記、尾道市史、福山を作った人々などあれこれ拾い読みし、それに手元にあった椙原系図を照らし合わせ、椙原氏にとって重要と思われる人々だけを簡単に抜き書きしたのがこれであります。
 権力が激しく浮沈する時代、弱肉強食の生き難い世に、一所懸命杜稷を護りぬいた血みどろの一人々々の足跡には、只涙して低頭するのみであります。

                      昭和49年5月

 椙原系図は昭和18年、土居杉原一男氏、蔵谷杉原吉治郎の二人が山口県萩市今魚棚町在住の、高洲安次郎氏(当時84才)を訪ねて書き写して来たものです。現在元本は山口県文書館にある筈です。

2、杉原姓の起こり
 高洲大田杉原氏は、第五十代桓武天皇第5の王子一品式部卿葛原親王の次子高見王の子孫であります。高見王の御子を高望王と申します。高望王は姓平を賜い上総介に任じ、赤旗を用いてこれより世々武臣になったのであります。
 高望王の御孫平貞盛は勅を受け将門を撃って父国香の仇を報じ、また関八洲を従え功に依り従四位下に叙され、鎮守府将軍に任じ陸奥守を兼ね、世にこれを平将軍と讃えました。
 貞盛の孫正度の三男(四男とも)貞衡は陸奥国長世保に地を賜い(中央政界で地位を与えられない皇族の一部は地方に流出して地方豪族になりました)、ここを本貫地として世々勢力の扶稙に専念したのであります。
 秀衡は平相国清盛四代の孫と言われています。重盛の子維盛の妾は秀衡を抱いて難を丹羽の国椙原に避けました。長世保の本家長世保五代良平には子なく秀衡の恒平を迎えて嗣子とし、一族の棟梁としたのです。ここで一族は姓を椙原と改めたと書き残されています。

 恒平は文冶元年(1185)奥州賊徒退治に功あり、従五位摂津守に任じています。後年、子の宗平、光平と備後国へ下向、宗平は神石郡父木野瀬原城主、光平は品冶郡中條の城主となっています。三備史略に「光平備後守護となる」と書いていますが、御調郡誌に「その守護たる事、三備史略意外には見えず」とありますので、尾道市史では疑問視しています。光平はのち、府中出口に八尾城を築き移り住み、また本郷木梨焼野の祖ともいわれています。本郷木梨焼野とは、沼隈郡山手村銀山の事で、これを焼野といいます。

3、南北朝争乱と、杉原兄弟のこと
 光平からの四代胤平は彦三郎為憲とも言い、執権北條高時に仕えていましたが、高時の妾と通じ憎まれて備後の国安那郡山野の里に蟄居しました。やがて後醍醐帝の召しに応じ、船上山に馳せ参じて京の新政にも参画していました。
 一日次の支配者が新田か足利か計りかね、名門椙原の血の絶縁事を憂えた胤平、勝平の兄弟(従兄弟清平の子に勝平あり)は、互いの大将に身を寄せる事に苦肉の策を見いだしたのであります。
 ここの所を西備名区は「兄弟閑談して新田戦闘起こらんは見極め難し、さらば家を失わざらん謀こそ肝要ならば、兄弟左右に分かれて高運に依るもの家名を立てん。微運は大将に従って陥るとも、一方立てば先祖の祭断つ可からずと兄弟示しあわせ、下総守(勝平)新田に従い隼人佐(胤平)は尊氏の手にぞ属しける」と書いています。
 かくて兄弟の予想は違わず、やがて両者の確執となり、新田は敗れて勝平は北陸の原野に義貞に殉じたのです。然しその一族の跡はよく北越に地方小豪族として生き残り、椙原壱岐守は上杉謙信の興る時、宇佐美定行などと共に謙信を助けてその名を連ね、また子の常陸守は上杉景勝に仕えて、慶長十九年大阪冬の陣には徳川家康から陪臣ながら数多くの感状を賜ったと外史は伝えています。

4、杉原中興の祖。信平、為平のこと。
 椙原又太郎信平、又次郎為平兄弟は、椙原家中興の祖として私達の忘れ去ることの出来ない人です。
 桓武天皇六代の後胤鎮守府将軍従四位下陸奥守平朝臣貞盛十三世の末葉彦二郎胤平の子で、胤平は京都で尊氏将軍に属して戦乱の中にいましたので、深津郡野上村(現福山市本庄)能満寺の伯父泰能の元にあって筆硯の業に励んでいましたが、建武三年春(1336)尊氏将軍西国御下向の由伝え聞き、今こそ身の安否を究めんものと路傍に蹲踞して召供を乞うたのであります。
 かくて建武三年二月中旬、筑前に多々良に菊池の軍と戦い、その日兄又太郎は敵七騎と伏首十三を取り、為平も相劣らず無数の功がありましたので、将軍自ら筆を取り、兄弟の浅黄の母衣に「西国一番の働無比類者也」と大文字で書き付けたと古書は伝えています。
 また、この功により御上洛の四月六日二人に備後国御調郡の内十三の村、本郷庄、木梨庄の地頭職に補せられた補任状が伝えられています。是により信平は本郷に、為平は木梨鷲尾山に城を築き住みましたが、後信平は鷲尾城に帰り、為平は麓へ家城を作って住んだといいます。
 また信平は足利氏の内紛にも兵庫、京都に功あり、観応二年(1351)二月十二日、備後国福田庄並びに高洲社外御下文を賜りました。高洲は福田庄とは地域的に離れていますが、当時中央では政治的に結びついていたのではと市史編著者青木茂氏は言っています。
 高州社を手に入れた信平一家は大田に松尾城を築き孫光盛二男行勝を入れて城主としました。これが萩の高洲氏、大田椙原氏の祖であります。
 時に永徳ー至徳年間(1381ー1386)行勝が成年に達したころと思われます。

 5、戦国武将。杉原盛重のこと
 備後国神辺紅葉山城主椙原播磨守盛重は、為平嫡流山名宮内少輔椙原忠興(理興)の養子です。木梨為平傍系五代、沼隈郡山手銀山城主椙原匡信の二男、母は高洲松尾城主彦太郎光忠の女です。吉川元春公の手に属し、武勇智計衆に勝れ、毛利四天王の一人に数えられ、武勇は多くの備後史記に有名であります。

 弘治三年春、神辺城主忠興は積年の病気から中風を発し卒去しました。忠興には子がありませんでしたので、元就公は絶家を惜しみ元春公の言を入れて、大機の盛重を相続せしめたと、陰徳太平記は詳しく伝えています。
 盛重は大胆闊達よく人を用い、盗賊火付け忍者でも功を震う者は、構わずその器を選びましたので、死生知らずのあぶれ者等諸方から馳せ集まり、如何なる堅陣もよく陥し入れて武名は日に高くなったのであります。
 永禄七年(1564)、尼子の本拠月山富田城への兵糧輸送ロースの喉元を制すべく、米子泉山尾高城へ迫ったのです。時に城主行松正盛は病没し、未亡人と幼い二人の遺児は、彼を入れて行松氏の名跡を保とうとしたのです。
 それから一六年。兵糧輸送分断に死力を尽くし、山中鹿之助の再三に亘る尾高攻めには、巧みな伏兵戦術で撃退しております。鹿之助との対決は、永禄七年(1564)弓浜合戦を皮切りに、天正六年(1578)上月城外に鹿之助が謀殺されるまで、十四年間続いています。

 盛重は、天正九年(1581)羽柴軍との戦闘最中、十二月二十五日伯洲八橋に傷寒の為病没しました。盛重には三人の息子があったと言われています。何れが行松氏の遺子か、未亡人との間の子かはっきりしませんが、毛利家の系図によりますと、元就の兄興元の女が盛重に嫁すとも記されていますので、尾高のロマンスもどこまで真実か分かりません
 天正十年(1582)羽柴秀吉の謀略に依って兄弟争いの末絶家しました。輝元卿は盛重の功を惜しみ、盛重の母の縁、又女日野左近妻の縁に依って、高洲元士の子、元勝にその宛行の一部を継がせたと伝えます。

 6、風雲、木梨城物語
 それより先、天文十二年(1543)六月、鷲尾城主木梨光恒の代、雲洲富田城主尼子義久は大軍を催して木梨の城へ押し寄せて来ました。光恒はよく防ぎましたが不叶自害して果て、弟和泉守通盛は尾道防士坂に討死、光恒嗣子高盛は生け捕られて富田の城へ送られたのです。高盛の中間角屋与八郎は尼子方をあざむいて高盛に近付き、懸垣を破って忍び出て、昼は草木に隠れ、夜毎忍んで日数八日で主従木梨に帰りつき、大内義隆卿を頼って家を再興しました。
 後、高盛は元清と改名しましたが、石原忠直の為攻められて矢に当たって果て、城を強奪されました。家老門田丹後は幼い嗣子元恒を抱いて本郷いたいざこと言う処に隠れ住むこと五年、元恒も物心つく年頃になりましたので、謀を以って忠直を城山から追い落とし、石原の知行を押収して、元恒を守り立てたのであります。
 後年、元恒は武威盛んになり、天正十二年(1584)木梨から尾道権現山(千年寺山)に城替えして、尾道経営に遺漏なきを期したのでありますが、子広盛の天正十九年(1591)太閤公の山城停止の御布令の為木梨の家城へ帰り、尾道城は崩壊したのであります。時に広盛はまだ幼く古志清右ヱ門を後見に、高洲玄番、山田四郎兵衛を家老としていましたが、輝元卿の不興を受け、山田は尾道で、高洲は周防国吉敷きからの峰に追手を受け切腹しました。
 広盛は幼少の故を以って罪を逃れ、弟経吉(隆景)に家督を譲り、周防に僅かの処一所を当てられ遇していましたが、程なく早世、子なく絶家したと伝えます。

 7、秀吉の朝鮮侵略と、松尾城主
 高洲松尾城主椙原元兼は、天正二十年(1592)小早川隆景公高麗御渡海の時、兵糧奉行を相勤め自身船で渡海しています。
 天正二十三年(1595)輝元卿から彼の地にて粉骨を竭し、武名を彰した故を以て、御証文御判物御書等数十通賜り、」また禄高五十石の地加増宛行きの文書も残っています。
 又大明国の大幟一流(麻布製長一間幅三尺)取り帰り、染出されていた紋章が椙原氏の家紋と酷似していましたので、天樹公から家紋確認のこと山口県文書館の古文書は語ってくれます。

 8、210年余の、松尾城主代々のこと
 関ヶ原役後、松尾城主元兼の代、高洲大田椙原は、毛利の国替に従って、盛常一家のみを故郷へ残して、他は長洲萩へ下向しました。盛常の祖父元胤は松尾城主でしたが、石洲水城へ城替のとき、後を弟元士に継がせています。思うに父元信は元胤晩年の子だったのでしょう。

 行勝が松尾城に入ったのは、永徳ー至徳年間(1381ー1386)頃と推定しますと、元兼の萩下向は慶長五年(1600)ですから、約二百十余年八代に亘り松尾城に居たわけで、一族はよく城主を助けてその地位を保ち、また世々各地に分家もして、備南一帯に於ける一大勢力として発展したのであります。

現在の松尾城跡大田杉原の紋所


               松尾城主第一代   二代  三代  四代
胤平ーー信平ーー光信ーー光盛ーーー 行勝 ーーーー光忠ーー元忠ーー盛忠ー+
               自永徳三年、四十年間           |
                                    |
+ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー+

| 五代  六代  七代  八代(自文録元年至慶長五年八年間)
+ー元盛ーー元胤ーー元士ーー元兼ー+ー元言
                 |
                 +ー盛常
 (系図は、一部略しました)


 (下記は冒頭にふれてある、高須杉原家「杉原系図」の、最初の部分抜粋です)
 杉原氏系図
桓武天皇ーー葛原親王ーー高見王ーー高望王ーー国香ーー貞盛ーー維衡ーー正度ー+
                                     |
+ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー+

+ー正衡ーー正盛ーー忠盛ーー清盛ーー重盛ーー維盛ーー秀衡ーー恒平ー+ー宗平
                                 |
                                 +ー光平


 (「椙原物語」の説明のために、下記の系図を資料としてつけます:尚示)

桓武天皇ーー葛原親王ーー高見王ーー高望王ーー国香ーー平貞盛ーー維衡ーーー+
                                    |
+ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー+
|     (長世保)                   (杉原)
+ー正度ー+ー貞衡ーーー貞清ーーー清綱ーー維綱ーーー良平ーーー恒平ーーー+
     |                         ↑(養子)|
     |                  (丹羽杉原) ↑    |
     +ー正衡ー・・・ー清盛ーー重盛ーー維盛ーー秀衡ーーー恒平   |
                                    |
+ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー+

+ー+ー宗平      +ー恒清ー+ー清平ーー+ーー勝平
  |         |    |     |
  +ー光平ーー員平ーー+    +ー心光  +ーー弘綱
            |
            +ー真観ー+ー胤平ー+ー信平ーー(本文中の系図へ)
                      |
                      +ー為平・・

松尾城絵図


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