杉原谷の名君・杉原兵太夫安久のこと

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 私はまた、兵庫県加美町の杉原谷を歩いています。昨年の訪問は4月、桜の咲き乱れる頃でありましたが、1カ月早い今年は、まだ梅の季節です。道の駅「かみ」は昼時ともあってにぎわっていました。
 前回は杉原紙のことで訪れたこの地。その後杉原姓のルーツともいえる「杉原光平」が備後へ行く前に訪れた可能性があるとか、いろんなことがわかってきました。で、今回は現在この地に住む杉原さんを訪ねての再訪なのです。加美町には「杉原」という地名がありますが、そこには杉原家はなく、そのすぐ北の「門村」にお住まいの杉原さんです。
  「私は杉原谷出身の大学生ですが・・・(杉原にある)神社には杉原兵太夫という戦国の領主の墓があります。また、うちの近くの山の上には当時の城跡が残っています。加美町の杉原家はこの人の子孫に当たります」というメールがきっかけで、まずはその方の実家、杉原剛さんをお訪ねしました。

 「うちの本家(従兄弟)は、杉原兵太夫から数えて18代目になります。1族の墓地に兵太夫の墓があるのですが、あの県道沿いの神社の裏手にも墓があり、あちらが戦死した所ではないかともいわれています。」
 私とほぼ同じ歳かっこうの剛さんには、杉原谷小学校が発行した学習資料集「すぎはら」などを示されながら説明していただきました。「本家の前の当主は杉原谷小学校の校長をしておりましてな、歴史にもくわしかったのですが・・・」。
 で、菩提時の御住職が兵太夫のことやこの地の杉原家のことにも詳しいからということで、御一緒していただきました。

 杉原谷小学校から少し南、門村(かどむら)というところの西の山すそに立派なお寺があります。淨居寺(じょうごじ)で、杉原兵太夫が建立したのがはじまりといわれているそうです。横には杉原兵太夫の構居(門村城)跡があり、子孫という今回訪れた杉原一族の住まいもすぐ下です。
淨居寺について御住職はその由来を『天文・永禄年間(1532~1569)この門村に構居をかまえ近在10余カ村の首長であった杉原兵太夫安久が(略)この場所にあった観音堂を改め天文5年(1536)淨居庵としたことに始まる。杉原兵太夫安久は民生よく治めその信望も厚かったのであろう。天正2年(1574)一月15日、(略)(敵が)突如オオミ坂より攻めきたり、構えも寺もことごとく灰塵に帰す・・・』と記されています。
 宇田住職は、これも私とほぼ同年代でしょうか。ぶ厚いノートいっぱいに書き込まれたメモを示されながら、話は戦国時代、赤松・山名両氏の争いの中で揺れ動く杉原谷の歴史へと発展します。もちろん私も大好きな分野ではありました。
 「杉原兵太夫安久については、播州一帯に勢力を張った赤松氏に属する豪族という見方があります。しかし私はちょっと違った見方もあると思うんです。全国の6分の1を勢力下においていた山陰の山名氏は、かねてから山陽に出たいと狙っていたようです。そこへ赤松満祐が将軍足利義教を殺害する嘉吉の乱がありまして。山名氏はこれを好機に攻め込んで、播磨は約30年間山名氏の領地になった時代がありました。その当時に山名氏の代官かなにかで杉原氏がここへ来たんではないかと思っています。」
 「西へ山を越えた所に、生野銀山があります。」
 えっ!!、生野銀山!!。話は私の思っても見なかった方向へと発展しました。杉原谷イコール和紙と思っていた私はビックリ!!。
 「その鉱脈がこの杉原谷の下にも延びていましてね。この谷にもあちこち廃坑があります。」「生野銀山にある竹田城(太田垣氏)に杉原氏が銀山奉行としていたという記録があり、その杉原氏がこちらの鉱脈を守るために、山名氏から派遣されてきたという可能性は強いと思います。」
 「それとこの杉原谷は、山陰から京都へ出るための間道(裏街道)として重要なところなんです。山名氏がそれもあって、ここへ杉原氏を派遣して居を構えさせたのではないでしょうかね。」
 「赤松氏が銀山に力を入れた形跡はありませんし、交通的にもこの杉原谷は赤松氏にとってそう重要なところではなかったと思います。」
 「備後では山名氏と杉原氏は非常に関わりが深かったようです。その杉原氏ではないかとも思っています。」
 話はどんどん発展します。

 最後に杉原兵太夫の門村構居(門村城)の跡へ案内していただきました。山裾に広い平地があり、その裏の山中には空堀や土塁のあとが続いています。山の頂上にも何かのこっていたそうで、あきらかに城跡ともいえる構えです。
 「杉原兵太夫という人は、当時の地元の人々からずいぶん慕われていたようですな。そんな話がいろいろ残っています。ふいをつかれて滅亡したあと、娘さんが村々にかくまわれていったという話も伝わっています。それであの県道沿いの神社(八幡宮)にも碑がたったのでしょう。」
 宇田住職の最後の1言は、かって杉原谷十余カ村から慕われていた、名君『杉原兵太夫安久』の強い印象を、この谷の美しい景色とともに、私の脳裏深くにしっかり刻みつけるものでした。(98、3)

八幡宮にある、杉原兵太夫の碑 inserted by FC2 system