「杉原姓目次」のページへ戻る

杉原札が続々と。但馬の旗本杉原領

 私、今日は兵庫県北部但馬の地を車で走っています。5月の連休、空は晴れ上がり、周囲の山々は輝くばかりの明緑色、若葉の群れです。えっ、なぜそこですって?
 実はこの地に江戸時代を通して幕府旗本だった杉原家の知行地(領地)があるという事を聞いたためです。

豊岡市の南隣にその地はありました
 
 以前にお訪ねした豊岡市史料整理室の山口さんから資料が送られてきました。江戸初期に3代にわたって杉原氏が続いた豊岡藩(2万3千石)は断絶するわけですが、そのすぐ南隣(今の日高町)にあった旗本杉原家は、曲折を経ながらも明治までずっと続いていたのです。
 今日は山口さんに紹介された、但馬の郷土史家吉盛智イ光(人偏に光という字がないため、こういう形にさせていただきました)さんをお訪ねする旅です。
 「豊岡初代杉原長房の従兄弟にあたる杉原長氏が、関が原で戦功を立てて、この地に1,000石の領地をもらうんです。それで勇んでやってきて荒川というところに陣屋を構えます。」
 郷土史家というにはまだ若い(し、失礼!)吉盛さんの説明が、お会いしたとたんまるで堰を切ったように始まりました。
 「これを私達は『荒川杉原』と言っています。初代長氏は早く死ぬんですが、3代4代のときに弟たちに領地を分けて分家させます。これでここの旗本杉原家は3家になります。その後荒川杉原は6代で絶えるのですが、他の2家(300石、200石)は明治まで幕府旗本として続きます。」

神鍋スキー場のふもと、植村直己生誕の地
 
 さっそくその日高町荒川の地に案内していただきました。道々「神鍋高原」「神鍋スキー場」などの看板が目に付きます。どうやら荒川は関西では著名なスキー場のふもとになるようです。不況になる前は多くの民宿で栄えたとか。おや、「植村直己冒険館」という看板も。あの超有名な冒険家生誕地の近くでもあるようです。
 などと考えているうちに現地に。思わず発した私の一言「ずいぶん山奥ですね。」
 「そうです。なにしろ関が原の直後のことですからね。初代長氏も領地のうち一番要害堅固な所を選んで陣屋を構えたようです。後ろは山で前は急流。いかにもという感じでしょう。」と吉盛さん。
 「今は民家になっていますがここが陣屋あとです。この裏手の山に広い平地がありまして、”りんごうじ”という地名が残っています。杉原家の東京の菩提寺臨江寺と同じ名前なので、おそらくここへお寺があったのでしょうね。」
 「あれが初代杉原長氏のものと見られるお墓です。」集合墓の中心に据えられた古いお墓でした。初代はここで死んでいるため、墓は東京には無くこれが想定されているようです。この日、近くに一連の僧墓が見つかり、どうやら荒川杉原の現地菩提寺跡というのは間違いないなと二人で確信しました。

荒川陣屋跡あたり”りんごうじ”から荒川陣屋跡をながめる

『杉原七十郎 七百石を 川へ進物』と
 
 「ここの六代七十郎正武は、幕府の進物番や巡見使を勤め、中国一円を七ヶ月にわたって巡見するなど、幕閣でも目立った活躍をしています。」吉盛さんの説明です。
 「明和元年(1764)32歳の時、浅草川にて納涼の際、悪酔いして舟から落ち溺死しているんです。それで知行召し上げお家断絶になります。その時江戸庶民が残した落首に

 舟に酔い 酒が杉原 七十郎  七百石を 川へ進物

なんていうのがあるんです。まあ笑い者になったのですけど。でも当時の幕府の役はなかなかなれなかったようです。700石(2分家に分けたため最盛期1,200石が700石になっていた)で進物番や巡見使に採用されていることから見ても、大変優秀な人だったと私は思っているんですけどもね。」
 ここ、荒川陣屋の杉原のお殿様、江戸中で話題になるなど、なかなかのエピソードを残してくれているではありませんか。

八代谷にあった杉原分家2家
 
 但馬地方を北に流れ、豊岡市から城崎温泉のところで日本海に注ぐのが円山川です。さきの荒川はその支流なのですが、そこからもう一本北側の谷を流れている支流が八代川です。この流域一帯、今の日高町八代(旧奥八代)、猪ノ爪、谷といった地名のあたりが、ここの旗本杉原2分家(200石と300石)の知行地だったのです。
 こちらのほうは地元に陣屋を置かず、庄屋たちに徴税をまかせていたようですが、無事に明治まで続いています。
 こうしてみると谷あいに民家が続き、田んぼが広がるのどかな田園風景です。お寺さんでも聞いてみたのですが、陣屋も無く領主もおそらく来たことがなく、明治になっても来ていないようで、当時の杉原家の痕跡のようなものは見つかりませんでした。(下は八代谷風景)

『但馬杉原札』のこと
 
 吉盛さんから突然「今日の名刺代わりです。」と言って渡されたのが、『銀壱分』と書かれた江戸時代のお札でした。上に米俵に乗った大黒様、下に千石宝船が細かい絵で印刷されています。中央に「但州杉原」の文字。裏にも鯛を持つ大黒様や打出の小槌などが描かれています。うーん。思わず見入ってしまいました。
 ここ旧気多郡一帯には、この「杉原札」がたくさん残されているそうです。
 さきの豊岡市史料整理室の山口さんからの資料にも、「杉原札」というB4、20頁もの資料があり、現存する杉原札の分類解説がなされていました。
 「この杉原札、この地方でたくさん流通していたみたいなんです。しかしそれだけでなく、大坂あたりでも出て来たりしています。貸付にも使われていたと私は見ているのですが。」と吉盛さんの解説でした。
 この日の八代谷では杉原家の痕跡は見つかりませんでしたが、この杉原札には「奥八代杉原」「八代杉原」「猪爪杉原」などもあり、当時の八代地方でも広く使われていたことはまちがいないようです。下にサンプルを載せますが「但州杉原銀札」「「但州杉原」などの文字が見えます。
 何にしても、現在判明している江戸時代を通じての「杉原領」はこの八代地方のみで、旗本杉原札をはじめたくさんの収穫があった取材行でした。(2003.5)

PS:先日お訪ねした「江戸幕臣、儒家だった杉原家」のときに、幕末の江戸住宅地図を見せてもらいいろいろ解説していただきました。そのときご当家の「杉原平助」宅(本郷)の近くに「杉原四郎兵衛」という家があるのが話題になりました。今回この但馬にきて、杉原四郎兵衛というのはこの但馬旗本杉原家が代々伝える名で、幕末のこの家は「猪爪杉原」といわれる家だということがわかりました。

 但馬杉原一門略図(吉盛智イ光氏作成)

家利ー+ー家次ーー長房ーー重長ーー重玄(豊岡)
   |
   +-某 --長氏ーー正永ー+-正勝ー+-正直==正府ーー正武(荒川・断絶)
                |    |     ↑
                |    +ー保勝(猪爪杉原300石)
                |    |     ↑
                |    +-正府→→+
                |
                +-正吉==正時ーー正照(奥八代杉原200石)
                |     ↑
                +-正時→→+

inserted by FC2 system