尾道市高須町の『杉原』さん(松尾城主末裔)

 尾道市の東南部、福山市との境に、高須町というところがあります。古くからの杉原氏の拠点の一つです。毛利氏が山口へ移ったとき、ここから当時の松尾城主をはじめ、多くの杉原氏が山口へ移り、「高洲」「高須」などと名乗ったと言われています。
 その時、城主の1族「盛常一家」をはじめ地元へ残った一族も多く、現在NTTの電話帳に尾道市高須で登録されている家は、62戸にのぼっています。
 そのなかから、古いお宅といわれる杉原治己さんをお訪ねしました。

 国道2号線を福山方面(東側)から尾道市へはいり、しばらく走ったところを北側に入ります。高須町の西端にある小高い丘に上がりかけたところに、そのお宅はありました。古くからの地名で「太田」というところだそうです。治己さんはちょうど私くらいの年齢でお互い勤めを持つ身、日曜日を割いての歴史談義となったのでした。
 『おじいさんが歴史がすきでしてな。昭和18年に山口へ出かけて、この系図を写してきたんです。』。長い軸にかかれた系図をはじめ、数々の資料をだしていただきました。桓武天皇からはじまる平氏の系図、そして光平、為平、信平・・・と、杉原祖先として私にもようやくおなじみになった名前が並んでいます。『原本は今は山口県文書館にあるそうです。』
 「うーん。やはり清盛の子孫になっていますねー。」。杉原氏が、同じ伊勢平氏の流れといっても、「尊卑分脈」のように、平清盛とは数代前に分かれた別系統の平氏であるというものと、清盛の直接の子孫としたものと、2つの系図があることを、ようやく最近知った私でしたが、こうして現物を目にすると、やはりその迫力に圧倒されてしまいました。

 『うちの本家が、松尾城主だったんです。杉原信平のほうの子孫ということになります。尾道バイパスをこちらから行くとトンネルがありましょう。あの坊士トンネルのすぐ右側の山なんです。ここからずっと北へはいったところで、安芸と備後の境に近いんですよ。』
 『本家は今は他へ出て行って、うちがここいらの墓を全部もりをしているんです。』
 おばあさんも加わり、さらに話がはずみます。

 『わたしょうの墓で一番古いのは、寛永二年(1625)です。27~28のお墓がありましてな。本家のをあわせると、70くらいあります。』
 なるほど、過去帳のはじめには「盛常、寛永二年」とみえます。別の資料では「盛常一家のみを残して、他は山口へ移った」とあります。江戸の初期に毛利が山口へ行ったとき、松尾城主の1族盛常が高須に残り、山を下りてこの南の山すそに居を構え尚して、今まで400年続いてきたのが、この杉原家ということになりそうです。
 『本家は屋号を畑岡といいましてな。畑岡杉原です。ここらはみなそこから分かれた家で、今20軒ばかりありますかな。そのうちで私とこは、蔵谷杉原といいます』

 ふとみると、かもいに額に入れた家紋が飾ってあります。『紋は左三つ巴です。それに剣がいれてあり、杉原盛重も同じです』。”巴剣菱”とでもいうのだろうか。いろんな資料をみせていただくと、左三つ巴は同じでも、「剣」のデザインはいろいろあるようでした。また、裏紋(女紋)には、代々「二本杉」を使っているということでした。

 ここで、『今日こられるというので資料をさがしとったら、こんなものがありましてな。私もはじめて見るんですが』とみるからに古い巻物が出てきました。ところどころ読めなくなっていますが、
 「延文元年   加賀大聖治庄 山中城主  杉原駿河守盛高
         備後国御調郡木梨江   国変の事・・・・」
 とあります。延文元年といえば、1357年になるのだが・・。うーむ。これはすごい。なんだろう・・・。

 最後にお墓に案内していただきました。お宅のすぐ裏山にある、おびただしいばかりの墓群です。段々を次々と上がるたびに、20~30の墓群があらわれます。『これが一番古い墓と聞いとります』古い墓がずらりと並ぶ様は、まさに壮観です。
 『あの向こうに見えるのが、菩提時の福善寺です。先祖が寄進して、建立したそうです』。谷1つ向こうの山腹に立派なお寺がみえます。そのすぐ横を、西瀬戸自動車道が通っているのがみえるのは、時代の流れでしょうか。

 帰路、治己氏宅のすぐ上の、一段高くなった平地を指して、『ここが、畑岡屋敷のあとです。600坪はあるそうです。』と教えていただきました。この地方の名主だったと聞かされましたが、江戸以降の高須杉原の本家として、どんな屋敷であったのでしょう・・・。
 私としても、いろいろ想像のはたらく訪問でした。  ('97,9)

 畑岡杉原屋敷跡 現在の松尾城跡

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