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出雲風土記の丘近くのお医者さんは、大黒様のようでした
 出雲地方の杉原さんで最初に訪問したのは、「松江記念病院理事長、病院長」と人名辞典に紹介のある杉原徹彦さんです。
出雲風土記の丘のすぐ近くに
 「おや、この道は以前に通ったことがある」と思いながらの運転でした。数年前でしたか、加茂岩倉遺跡で大量の銅鐸が発見された後、出雲風土記の丘に神庭荒神谷遺跡で発掘された3百数十本の銅剣とともに展示され、考古趣味の私も一日通ってきた道に違いなかったのです。地図をみますとたしかにまもなく風土記の丘にさしかかります。おっと、右手に大きな看板が!。「ケアハウスやすらぎの里」「老人福祉施設あけぼの」とあります。。
 その「あけぼの」の理事長室で、大変恰幅のよい徹彦さんは、静かに私のインタビューに答えて下さいました。
 『私は松江市立病院に23年くらい勤めていたんですけどやめまして、昭和63年に松江記念病院と言うベッド数120の病院を作ったんです。それから5年後にこの「老人福祉施設あけぼの」をつくって、病院の患者さんの一部を移したんです。島根県は日本一の高齢化県でしてね、老人がいっぱいいるんですよ。こういう施設はいくらあっても足りないくらいなんです。』。
 『そのあと最近ですけど、土地も1,000坪くらい買って、「ケアハウスやすらぎの里」というケア付マンションのようなものをつくりました。もう年になりましたし、今は病院のほうは娘や娘婿にまかせて、おもにこちらに来ているんです。』
 
お寺の兄弟がお医者になって
 その風貌からもエネルギッシュに事業を拡大している方という印象を受ける徹彦さんですが、あくまでも静かに、トツトツと語られます。本当にまじめ一方というお人柄がにじみ出てくるようでした。 
 『実は僕の実家はお寺なんです。おじいさんが住職で父も坊主なんです。』
 意外なことが飛び出しました。「えっ、島根県の杉原さんは医師が多いという印象だったので、そう思っていたのですが意外ですね?」思わず聞いてしまいました。
 『広瀬町の山の中にある妙楽寺と言うお寺が僕の家です。昭和20年に旧制松江中学にいりました。終戦で松江高校になりましたが、当時はぼんやりと仏教系の大学に行って坊主のあとを継ぐかな位に考えていたんですけどね。』
 『高校2年のとき、近くの開業医がなくなりまして、無医村になったんです。で僕のところへ、「村で進学校にいるのは君くらいだから、ぜひお医者になってくれ」という話があったんです。先生は「ちょっと無理じゃないか?」なんていわれたんですけど、がんばって鳥取大学医学部に入ったんです。』
 『卒業して松江市立病院に勤めたころ、弟(杉原登司男さん)も小学校を卒業しましたので引きとって一緒に生活したんです。結局弟も医者になってしまいまして、今お寺は他の人にお願いしています。』
 「えっ、相撲をやられるんですか?」思わず聞き返してしまったのは、『この施設は曙が優勝した年に作ったから「あけぼの」という名にしたんです。』とさらりと言われたときです。どうやら相撲はされないようですが、本当に物静かで生真面目な話し方の中に、時折ユーモラスな話題も飛び出し、こちらも驚いてしまうインタビューでした。

大きな袋を肩にかけ
 白衣姿で忙しそうに働いておられる奥様も時々お顔をおだしになりましたが、『女房や子供はもう少しお金を残しておいて欲しいというんですけど、僕はどうも蓄えるのは苦手で、少し貯まったと思ったらすぐ事業に使ってしまうんです。まあ、私の性格としてこうしてどんどん事業を拡大して、それを残して死んでいくんでしょうね。3施設で働いている人はもう200人を超えました。まあみな法人化していますから、子孫には迷惑にはならないでしょうけど。』
 ここまで話されてやっとニコッと笑われた杉原徹彦さんですが、そのあと巨体をゆすって車を運転し、私に3施設を案内して下さいました。
 う~~ん。出雲にはすごい杉原さんがおられるものです。

   ♪ 大きな袋を肩にかけ  大黒様がきかかると
   そーこへ因幡の白兎  皮をむかれて あかはだか・・・・・ ♪♪

 あ、そうですね、大黒様(大国主命)って、因幡の白兎を治療したお医者様でもあったのですね。

 というわけで、出雲入り早々に出会った「大黒様?」へのインタビューでした。(2000,11)

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