(下手より母と子登場、よろよろ歩く母の手を引っぱるように平助が)
(たえ、立ち止まり背を延ばして、手を前にかざす)
たえ「ああ、なんと門田に似た景色であることか。あの大きな川‥‥。」
たえ「あ、船が‥‥」(絶句)
(たえ、ひざまずいて背の子をのろのろと降ろす。また背負って歩き出す。)
(ついに意を決したように、背の子を前に)
たえ「もうだめじゃ。あやよ。許してくれ。このままでは我が倒れる。ああ、ああ」
(川岸。小さい川船がある。「背負いこ」のまま、あやを船に)
たえ「だれぞの目にとまってくれい。」(そっと船を押し出す)
たえ「おお、このような。このような。」
平助「母上。あ、あや。あや。あやー。」
(たえ、平助をしっかり抱き、船をみせまいとする。そのまましばし立ち尽くす母と子)
(暗転)
この一族の祖は、戸川平右衛門秀安(もと富川)といい、岡山城主、宇喜多
直家に重臣としてつかえ、常山城主などをつとめた人です。
これは、この秀安の母の物語です。
備後の国門田というところに、姓も門田という家があり、そこで天文七年、「
平助」という子が生まれました。ところがしばらくして父親がなくなり、故郷を一
家して立ち退かねばならぬことになったのであります。乱世のことでもあり、父親
がなぜ死んだのか、またなぜ生まれ故郷を立ち退かねばならなかったのか・・。
今は記録も無くようとして知れません。このとき、長男平助(後の戸川秀安)は5歳、
女の子は2歳でした。
この母は、わが子との別れがおおきく人生観を変えたのか、まさに獅子奮迅の人生を
おくり、後の戸川家の基礎をまさに女手1つで築いています。
津山の姉の嫁ぎ先「富川家」に平助を預け、岡山に出て、今をときめく「宇喜多家」
のちの「忠家」の乳母となります。
平助は、「富川」となのり、その後母について岡山にでて、若い宇喜多直家につかえます。
母は才気煥発にして、直家の周辺一切をとりしきり、また宇喜多家重臣岡惣兵衛に嫁ぎ子を
もうけました。しかしあくまで秀安の栄達をのぞみ、直家の世帯の切り盛りにせいをだしたのです。
戸川家の祖となった秀家は、「幼稚にて流浪す、母取立しゆえに」我「成立にけり」と
この母を大切にし、備中庭瀬城主となったときに呼び寄せ、「孫子共怖れ敬」い、長生きしました。。
慶長8年92歳にて逝く。法名「妙珠」。