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戸川家の立志伝、秀安の母


 (上手より、5~6歳の男の子が走り出て、振り返って手を振る)
平助「母上ー、はやくはやく」
 (言葉は侍言葉だが、着のみ着のまま、頭はぼさぼさである。)
 (女があとを追うように登場し、その場にひざまづく)
たえ「おお、なんと遠いことか。姉上を頼ってのこの数日、もうだめじゃ。 このままでは、みな共倒れじゃ。おお、おお、なんとすべきや」
平助「母上ーーー。父上はー」
たえ「父上はねー。これからいく津山というところにおられるのですよ」
たえ(ひとりごと)「嫁いでより6年、このような不幸があろうか。やさしい夫、かわいい 子たち。あの川のながれ。あれはどこへいったのだろうか。夫はなぜあのような。最後に我 と子たちを逃がすのがせいいっぱいであったのか‥‥。」
 (たえ、背の子を降ろし、しばし見入る。2歳程度の女の子である。)
 (たえ、おおきなため息。首をはげしく左右に振る。再び女の子を背負って、二人下手へ退場。)


 (下手より母と子登場、よろよろ歩く母の手を引っぱるように平助が)
 (たえ、立ち止まり背を延ばして、手を前にかざす)
たえ「ああ、なんと門田に似た景色であることか。あの大きな川‥‥。」
たえ「あ、船が‥‥」(絶句)
 (たえ、ひざまずいて背の子をのろのろと降ろす。また背負って歩き出す。)
 (ついに意を決したように、背の子を前に)
たえ「もうだめじゃ。あやよ。許してくれ。このままでは我が倒れる。ああ、ああ」
 (川岸。小さい川船がある。「背負いこ」のまま、あやを船に)
たえ「だれぞの目にとまってくれい。」(そっと船を押し出す)
たえ「おお、このような。このような。」
平助「母上。あ、あや。あや。あやー。」
 (たえ、平助をしっかり抱き、船をみせまいとする。そのまましばし立ち尽くす母と子)
 (暗転)


 クサイ芝居でごめんなさい。
 今の岡山県南部、岡山市と倉敷市の境のあたりに、江戸時代、戸川家という 旗本が数家、領地をもっていました。撫川(なつかわ)、妹尾(せのお)、早島、 帯江、中庄、そして庭瀬です。うち庭瀬は二万五千石の大名でしたが、早 くに断絶しています。他はそれぞれ陣屋を構え、明治まで旗本として続きました。

この一族の祖は、戸川平右衛門秀安(もと富川)といい、岡山城主、宇喜多 直家に重臣としてつかえ、常山城主などをつとめた人です。
これは、この秀安の母の物語です。

備後の国門田というところに、姓も門田という家があり、そこで天文七年、「 平助」という子が生まれました。ところがしばらくして父親がなくなり、故郷を一 家して立ち退かねばならぬことになったのであります。乱世のことでもあり、父親 がなぜ死んだのか、またなぜ生まれ故郷を立ち退かねばならなかったのか・・。 今は記録も無くようとして知れません。このとき、長男平助(後の戸川秀安)は5歳、 女の子は2歳でした。
 この母は、わが子との別れがおおきく人生観を変えたのか、まさに獅子奮迅の人生を おくり、後の戸川家の基礎をまさに女手1つで築いています。
 津山の姉の嫁ぎ先「富川家」に平助を預け、岡山に出て、今をときめく「宇喜多家」 のちの「忠家」の乳母となります。
 平助は、「富川」となのり、その後母について岡山にでて、若い宇喜多直家につかえます。
母は才気煥発にして、直家の周辺一切をとりしきり、また宇喜多家重臣岡惣兵衛に嫁ぎ子を もうけました。しかしあくまで秀安の栄達をのぞみ、直家の世帯の切り盛りにせいをだしたのです。
 戸川家の祖となった秀家は、「幼稚にて流浪す、母取立しゆえに」我「成立にけり」と この母を大切にし、備中庭瀬城主となったときに呼び寄せ、「孫子共怖れ敬」い、長生きしました。。
 慶長8年92歳にて逝く。法名「妙珠」。 inserted by FC2 system