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 和歌山県と『杉原』の物語

 私は今、紀ノ川中流の開けた谷あいにいます。紀伊富士といわれる龍門山(758m)の裾野が広がり、一面の果樹園です。柿、ぶどう、梨、みかん、キウイ・・・、おやこれはさくらんぼのようですね。この一帯が『杉原』なのです。

紀州の『杉原』は「すいばら」と読みました
 
 「和歌山県那賀郡粉河町杉原」。そう、私がこの地名を地図で見つけたのはほんの偶然でした。新和歌浦で高校の同窓会をやる・・ってことになって、じゃあついでにどこか観光地巡りでも・・と地図を見ていた時でした。和歌山から紀ノ川を遡っていきますと、根来寺、粉河寺(西国三十三観音三番札所=右の写真)、そしてあの高野山を経て奈良県へと達します。ああ、行きたいところばっかりでは有りませんか。
 と、その時に見つけてしまったのです、『杉原』という地名を。粉河寺のちょうど真南、紀ノ川をはさんで対岸にあたります。これは行かねばと、やってまいりました。
 昔は龍門町大字杉原だったようです。でも現地で驚いたのはこれは「すいばら」と読むそうなんです。たしか東北地方ではそう読むところもあったようでしたが、まさか近畿でお目にかかるとは思いませんでした。。
 冒頭に言ったように、今は一面の果樹園が広がっています。少し上流の紀ノ川からとり入れた用水も中央を流れているようですので、昔は水田地帯もあったようですが、今は少ないとお聞きしました。同じく中央を東西に貫く県道沿いに、竜門小学校、同中学校を含む集落が続きます。「杉原」は龍門山の裾野に広がる龍門地区(旧龍門町)の中心地のようです。
 ここはまた、龍門山中腹からのハンググライダーの名所でもあるそうです。実はそこまで車で行ってしまいました。登山の人や山菜取りの人たちとお目にかかり、絶景のなかで楽しい語らいと、心の洗濯もさせていただきました。
 「もう少し前の4月中旬に来れば、龍門山は山桜が満開で、まるで友禅染めの着物の柄をみるようでしたのに・・」地元の散髪屋の奥様の一言も印象に残りました。。

「杉原」地区から龍門山を望む龍門山中腹からの絶景

龍とクモとの壮絶な戦いで洪水となったふもとが「水原=杉原」
 
 『奈良時代のことだそうです。この龍門山に大きな蜘蛛(クモ)が住みつきふもとの人々や道行く人の物を奪ったり殺したりして荒らしまわったのです。都(奈良)から征伐にやってきた人が、地元の九頭竜王にお祈りをしたところ、龍門山の一角に穴が空き龍王が現れたそうです。その穴からの水でふもとは大洪水になりましたが、龍王は激闘の末見事にクモを退治しました。この時大洪水になった一帯を「水原(スイバラ)=杉原」と言うのだといいます。』

 これは和歌山県立図書館でみつけた「粉河町のなりたち」(粉河町教委)という本にあった物語を私が要約したものです。龍門山一帯はその後の南北朝時代には激しい戦場となり、紀州富士として江戸時代の名所にも取り上げられたりしています。。。

室町時代に杉原さんが地頭として居たところ
 
 和歌山県にはもうひとつ杉原姓と関連の深いところがあるのです。「杉原一族」という本には次のように書かれています。
 『坂上姓の杉原氏。この氏は紀伊の海部(あま)にありし旧族にて永享年中(1429~、室町時代中期)に加太庄の地頭となりし人に杉原氏盛あり。本姓を坂上氏と伝え、有名なる坂上田村麻呂の子孫なりという。・・・・』
 というわけでやってきました。和歌山市加太(旧海部郡加太村)。大阪と和歌山の境をなす山脈が海へと突き出たその先端が『加太』でした。その昔は南海道の先端の駅のあったところ。漁業で長く栄えた土地のようです。狭い路地を持つ人家が密集し、典型的な漁村風景でした。私の和歌山在住の高校の友人はここのマリーナに船を持ち、休みには釣り三昧とか・・。うらやましい。

 淡島神社というお宮さんがありました。な、なんと社殿の周辺に所狭しと人形が並べてあるでは有りませんか?。ちょっとギョッとする風景ですが、なんですかお雛様の発祥の地とか。いろんな人たちが持ち込む人形供養のお宮さんなのでした。おまけに信楽焼きの狸の置物も並んでいたのがほほえましかったです。お雛様がここから発祥し、全国に広まったとは知りませんでした。神宮皇后も出てくる縁起物語で、古い歴史をもつ加太の地という印象が残りました。

加太地区風景淡島神社淡島神社社殿下

 杉原姓の多くは「桓武平氏桑名の流れ」と思っていましたが、ここで坂上田村麻呂の子孫という杉原氏を発見しました。この子孫はのちに大和小泉藩の家老をつとめたということですので、また奈良県を取材して報告したいと思います。(2004,4)

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