紅葉の渓谷、備後の『金太郎』兄弟

ー福山市山野町を訪ねてー

 杉原姓の伝説にも様々なものがあり、先祖達のいろんな人柄を浮かび上がらせてくれます。その最たるものが、「執権北条高時に仕えていましたが、高時の妾と通じ憎まれて備後の国山野の里に蟄居した」(椙原物語より)という杉原胤平の物語です。特にこの胤平の子達があの杉原信平、為平とあってはよけいに気にかかります。

 で、「山野の里」を訪ねてみることにしました。
 地図でみますと、福山市山野町とは、福山市の最北端、「山野峡」という風光明美な峡谷の地のようです。杉原家が何軒かあるようですが、祖先や長者屋敷とのかかわりなどはわからないということでした。
 長者屋敷とは、杉原茂さんの「八ツ尾山杉原城主記」にでてくる屋敷跡で、杉原胤平の隠遁の地ということになっています。
 秋晴れの一日。山野をめざして出かけました。山陽自動車道の福山東ICから一路北へ、途中で神辺町を通り抜け、ICから30分余りで「山野」に着きました。岡山県西部を流れる小田川の上流にある、すりばちの底のような盆地が山野です。まず歴史民族資料館の看板にすいよせられるように立ち寄りました。
 古い民家を改造したようなその建物は、家並のちょうど中央あたりにありました。養蚕の道具や米作りの古い道具などが所せましと並べ立てられています。足踏み水車など、昔わが家にもあったなつかしい道具類もすくなくありません。
 玄関の脇に「山野村」の古い地図がありました。しばらくながめて、ようやく気づきました。「長者屋敷跡、上臈屋敷跡」。地図の最北端、山野渓谷をさかのぼった一番奥にそう書いてあります。
 本などもいくつか展示してあります。「やまの」という山野町の歴史から民俗、社会にいたるまでを網羅した立派な本に、「山野村略年表」というのがありました。ずっとみていくと何と「1316~1325年頃、北条高時の娘賤機姫、杉原胤平ら、山野に隠れる」とあるではありませんか。「賤機姫」というのははじめて聞く名です。どこに載っているのだろうと本文を探しましたが、みあたりません。(末尾の追記参照)
 あきらめて、とにかく長者屋敷跡へ行ってみることにしました。
 山野の中心部から県道を一路北へ。県道といっても車がやっと1台通れるような狭いところが少なくありません。キャンプ場を抜けたあたりからは急に景色が良くなり、みごとな紅葉です。対岸には「聖嶽」という切り立った岩山もみえます。その分だけ道はますます狭く、左側は断崖絶壁、右側は切り立った崖で、いつ石が落ちてくるか気が気ではありません。そろそろと運転するのですが、なかなか目的地へ着きません。もちろん人家はなく、このまま行き止まりにでもなったらどうしよう・・・。と不安になってきたりします。


 トンネルを抜けたところに紅葉橋があって、そこも美しい景色でしたが、道はまだまだ続きます。次の橋を渡ったところが道が2つに分かれ、左側にようやく人家がみえました。ところがその手前で福山市山野は終わりの看板がでています。山野の北のはずれに目的の「長者屋敷」があるはず、通り過ぎたのかもしれません。案内板も何も無かったようですが??。
 とにかく先の人家で聞いてみようと、玄関のベルを押しました。幸い御在宅で、出てこられたおかみさんから話を聞く事ができました。
 「ここは青滝というところでしてね。青滝二軒といいます。この道は1級県道ですから、みなさんよく通られるんですが、この先はもっと細くなりますよ。」
 「そうですか。杉原さんの先祖をネー。私も詳しくは知らないんですが、もうちょっと引き返したところに、道がカーブしていたでしょう。そこから入ったところがそうだと聞いとります。ダムの堰堤のすぐ近くです。あそこで川をせき止め、水をトンネルで下流の発電所に引いとるらしいんです。」
 そういえば先ほどなにやら入り口のようなものがあった記憶があります。
 車を止めて行ってみました。なんと道から外れるとすぐ、杉原茂さんの「城主記」の長者屋敷あとの写真と同じ景色があるではありませんか。松林に囲まれた平らな場所です。まさに「長者屋敷跡」にちがいありません。さらに入ると、下って川岸へ出ました。川の対岸に、今はコンクリート壁がありますが、そこもちょっと屋敷が作れるくらい平になっています。「あれが上臈屋敷跡にちがいない」
 ここで小田川が逆S字型にうねっていて、その2つのふところの部分が平になっているのです。

 屋敷跡でしばらく考えました。
 いくら北条将軍の怒りをかって陰遁したとはいえ、こんな奥の奥へよく屋敷まで作って住んだものです。資材などどうやって運んだのでしょうか。当時はもっと水かさがあって、舟などが入ったのでしょうか。従者も来たでしょうし、いったい何人くらいが住んだのでしょう。周囲には木も豊富ですし、まったけをはじめとしたきのこ、山菜、魚も豊富だったにちがいありません。景色も良いし水も良い。見方によっては非常に豊かな土地です。
 杉原信平、為平兄弟は、ここで育って成人したわけです。きっとけわしい山、野、川を駆けめぐって、足利尊氏が日本一と称えたほどの豪の者に育っていったのでしょう。
 民俗資料館の資料によると、山野は平安時代から地頭職がおかれ城が築かれたようです。そうすると将軍の怒りをかって隠れ住むには、里ではなくそれから10キロも険しい渓谷をさかのぼった、このような土地に居を定めるしかなかったのかもしれません。それがまた、杉原信平、為平という兄弟英雄を育てる理想的な環境となったもののようです。

 「うーむ。これは備後の『金太郎(坂田金時)物語』だなー。当時は相撲あいての熊もいたんだろうか??」
 快晴の秋の一日、紅葉をながめながら想像をふくらませた、幸せな日ではありました。(97,11)


 (追記)私が後に知ったところでは、山野の郷土史家故世良戸城さんの「山野村語伝記」には次のように書かれていました。
 (西備名区、巻き之七十六、御調郡木梨村の項を引用ののち)
 「杉原胤平は北条相模守高時の臣であったが、高時の娘賤機姫と通じ、罪をえて追われ、弟下総守と共に山野村に遁れ来たのである。高時は家臣に命じて、胤平、勝平兄弟と娘も共に討ち果たすべく、追手を差し向けたが、高時の室は娘可愛さに、又相当の警護の士をつけてこれを西国に落とした。・・・」

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