福山市山手町の杉原さん

(銀山城周辺を訪ねて)

 広島県福山市を流れる芦田川。今はその河川敷になってしまいましたが、かっては「草戸千軒」という中世に栄えた大交易都市がありました。その草戸千軒からほど近いところに、福山市山手町というところがあります。
 草戸千軒が栄えた頃、杉原姓の城主が「銀山城(ぎんざんじょう)」という城を構えた時代があり、あの「杉原盛重」はこの山手銀山城主から、神辺城主になったといわれています。

 「福山市山手町」という地名と杉原さんで電話帳をひいて電話しました。「そちらのほうで、杉原姓の古いお宅がありますでしょうか」と聞きまして、2軒目で教えていただいた「杉原克美」さんに電話しました。
 「あのー。倉敷の杉原尚示といいます。」
 『え。あ、岡山の方でお世話になっております。』先方はなぜか私を知っている様子。よくよく聞いてみますと、なんとあの「時計台のある大学の杉原先生」の御実家だったのです。なんという偶然、なんという幸せ・・・。
 で、あつかましくも、さっそくおじゃましてしまいました。

 ここでもいつものごあいさつ。『同じ杉原ということで、何となく初対面という気がいたしませんですなー』。克美さんご夫妻と「杉原先生」の妹さんが、秋祭の一日をつぶして取材につきあって下さいました。
 『うちにある資料はコピーしておきました。』と娘さんが出して下さるよこから、『実はこんなものも』と克美さんが並べられる資料の山。『え、そんなものあったん。おじいさん、いつのまに調べたん。』
 とても感じの良い「茶室」といったおもむきの「離れ」へ通されましての歴史談義。日頃のストレスがスーーと消えて行くような、秋の一日でございました。
 『姉はそんなもの出したらすぐ偽物と見破られて恥かくから出すなというんですけどね。』でも、私にとってはみな貴重な資料です。ありがたく拝見させていただきました。

 『うちは分家になるんですよ。本家は何か事情があったらしく、昔の事ですが系図を売るなんてことがあるんですね。それでうちにあるのは写しということになっていますが。』と娘さん。銀山城は、木梨の家城にいた為平の子孫がでてきて築いたとか。杉原匡信、理興、盛重の名が続いています。
 『私もちょっと前に杉原家に興味を持って調べましてな。』と克美さんは郷土史関連の本をいくつか見せて下さいました。「山手土地改良区・・組合」の記録とかで、山手杉原についての記述が散見されます。
 『今日もお祭をしていますが、この山手にも八幡神社がありましてな。最初はこの地の杉原の守り神だったそうですが、今では土地全体の氏神になっています。』
 『紋は左三ツ巴で、剣がついています。女紋は二本杉です』これは、お隣の尾道市高須の杉原さんと同じようである。

 『銀山城はこの横の池の所からみえますよ。』ということでちょっと外へ。見えましたみえました。すぐ裏に二重に山が連なっていまして、その奥側の峰がそうだとか。「お宅のすぐ裏山という感じじゃあないですか」と私。するとおばあさんが『そうですよ。あの銀山城から浜矢というのをこっちへ射ていたらしいです。ちょうど矢が届くここらを”浜矢場”というんです。浜矢の射方についての巻物も伝わっていたんですが。』

 最後に山手銀山城杉原家の菩提時という、「三宝寺」へおじゃましました。銀山城のあった山裾にありました。ところが、なんと「←杉原盛重の墓」という案内板があるではありませんか。え!。盛重はたしか山陰で・・・??。
 でも三宝寺の若い御住職は、かっかっ大笑しておっしゃいました。『ええ、たしかに盛重は山陰で死んでおります。ただ銀山城は3代あって、3代目の盛重はここから神辺城へでたようです。あとへは高橋という家老しかのこらなかったとか。しかし菩提時のうちには墓が3つあるんですな。位牌にも盛重名がありますし。こうしたことを考えると、あながちまったくの間違いとも言い切れないようです。』
 うーむ。私としてはなんともいいようがありません。この三宝寺は、杉原銀山城主の手で建立されたようではありますが。
 『この銀山城というのは、福山から府中へ抜ける街道を抑える位置にあるんです。杉原氏がその前にいた木梨の鷲尾山城も、石見の国から尾道へ抜けるいわば銀の道を抑えていますし。当時の杉原氏はこうして街道筋を抑えて、通行税でも取って勢力を拡大していたんでしょうかね。』

 御住職のひと言ひと言に、私は杉原姓研究への新しい目を開かれた思いで、夕暮れせまる山手町をあとにしたのでした。 inserted by FC2 system