富山県八尾町など、3つの杉原神社

「杉原姓目次」のページへ戻る

 岐阜県のJR高山線を北へ行くと、富山県との県境に近いところに 杉原駅というのがあります。そこをさらに北へ行って、富山県にはいりますと婦負郡八尾町があります。その八尾町に、「杉原」という地名があるのです。正確には合併前の旧村名ですので「杉原地区」という形で残っているのですが。八尾町のHPでそのことを知りまして連絡をとったところ、なんと「杉原神社」の禰宜(ねぎ)をしておられる「杉原さん」にゆきあたったのです。この付近に杉原神社は3つもあり、この杉原さんは他も含めて62社の禰宜なんだそうです。

 その杉原秀圭(すぎはら ひでかど)さんにから原稿をいただきました。


 杉原神社は富山県婦負郡八尾町黒田三九二八(ねいぐんやつおまちくろだ)に鎮座する延喜式内社(村社)である。他にも田屋(たや、婦中町)と浜の子(はまのこ、婦中町)に同名の神社が存在するが、黒田のものが本宗と仰がれている。私の家(杉原家)は明治以後この黒田と田屋の杉原神社に奉職する社家である。

 当神社に遺るの社伝によれば、第十代崇神天皇即位十年に大彦命が勅命を受けてこの地にとどまり耕作の道を教え給うたとき、この地に疫病が流行し、民死するもの多かった。命大いにこれを憂い給ひ、巨大なる杉樹を神と崇め、種々供御を為し尊崇されたところ悪疫止んだので、住民喜び、その後この樹下に祠を建て神像を刻んで祀り、「辟田(さくた)の社」と称した。のち、聖武天皇天平二年(七三〇年)三月一日、この社を越ノ国社と勅定し給ひ、神名を「木祖神(久々能智神)」と下し給うたという。
 また、別の古伝書によれば、文武天皇大宝二年(七〇二年)六月創立といわれる。杉原野の開祖である杉原彦命、及び木祖神を郷長小右衛門なる者が杉原野守護神として己が邸内に奉斎していたが、この地方に疫病が流行するようになった。このため郷民がこの小右衛門に願い出てひとつの祠を建立し、この神を移して皆で参拝した。これを名付けて郷の明神と称されたが、のちに清和天皇貞観五年(八六三年)八月十五日、越中国正六位上、杉原神に従五位下が授けられたという。またもうひとつ別の古書によれば、杉原野に石窟を作って創立した社で、天平五年に勅使が下って正一位を授けられ、大和舞を奏して鎮座せしめられたという。
 以上のように起源由緒は諸説合致を見ないが、元来巨大な杉の木に宿った神だったようである。田屋の杉原神社の御神体が立山杉(たてやますぎ)の一木造りであることからもうなずける(平安時代の作。穏やかな表情の老翁の姿である。県の重要文化財に指定)。また、疫病を抑えた神としても崇められていたというのも二説に共通している。歴史的に神社の起源がかなり古いとすれば、もともとは自然崇拝的な信仰が元であったと考えるのは妥当であろう。

 さて、これとは別に、杉原彦と咲田姫(さくたひめ)の伝承が風土記としてこの地方に伝わっている。黒田の杉原彦(辟田彦)が咲田姫(辟田姫)と共にこの地を開拓(治水工事)された際に、十日も雨が続き途中洪水が発生した。このとき杉原彦と咲田姫は三日三晩通して田畑を水から守ったが、ついに咲田姫は力尽きてその場にばったり倒れてしまった。杉原彦は疲れきったからだで咲田姫を背負い、一人で田屋の郷に運んで看病したという。これにちなんで今でもこの地域一帯を「婦負の里(ねいのさと)」と呼ぶ。冒頭の住所でもわかるように、現在二町一村を含む「婦負郡」として富山県のほぼ中央の平原を占めている。
 現在黒田の杉原神社の主祭神としてまつられている「杉原神」はこの杉原彦命(辟田彦命)と、先に述べた木祖神、すなわち久々能智神とが融合したかたちになっている。おそらく元来の木祖神のところに、功労者である杉原彦を併せてまつったものと考えられる。(咲田姫の方は田屋の杉原神社に杉原彦と共にまつられている。)
 冒頭にも述べたが、現在杉原神社は三社ある。このためどれが延喜式で指定された社なのか、今でも黒田説と田屋説に分かれている。文献も黒田とするもと田屋とするものとがすっぱりとわかれている(浜の子を指す文献はひとつしかない)。しかし、「たや」という地名を「旅屋」の縮まったものと解すれば本宗は黒田ということになる。実際の社も黒田の方は杉の老木が生い茂っており、樹齢千年を越える樫の木などもあり、古社の風格充分であるが、田屋の社は閑散としている。いずれにしろ、黒田の社と田屋の社はわずか数キロしか離れておらず、当時の歴史的背景を考えると、一地方豪族が氏神として領地内に祀っていたのではないかと思われる。であるとすれば、別にどちらでも問題はないと思われるが。

 このように杉原神社の歴史は比較的古い。社家としての杉原家は明治以後で、私の父(現在宮司)で4代目であるが、別当の時代なども含めて世代を追うと、父で九〇世目になるという。古くは隣の浜の子村の野上氏が神職として奉職していたが、江戸時代寛文年間から真言宗長久寺(ちょうきゅうじ)の僧が別当として奉仕した。江戸徳川幕府の勢力が確たるものとなり、寺請制度が地方にも浸透してきたのが背景であろう。のち、享保年間に神職の野上氏が移転したため、僧のみが奉仕するようになった。明治になると、僧は還俗して杉原氏を称して神職となり現在に至る。(ということになっているが、実際には僧は還俗せずに養子をとって社家として後を継がせたらしい。どの道私の祖父夫婦は養子であるので私には関係ないが。)
 さて、今日現在の黒田の杉原神社であるが、御祭神が杉原神の他に、相殿神として四柱ある。水分神、誉田別尊、建御名方神、菅原道真公である。どれも明治以後、合祀されたものである。このあたりのことを記した文献が現在見あたらないため詳しいことはよくわからないが、明治時代末から大正時代にかけて行なわれた神社整理の影響であろう。ただ、水分神に関しては、以前より境内地内にあった祠を合祀したものらしい。おそらく辟田彦辟田姫の伝承もこの地方の治水に関するものであるから、当時から末社として祀っていたのであろう。
 最後に例祭は黒田が四月一七日と一一月二三日、田屋が四月一〇日と九月一〇日となっている。また、黒田の社は昭和六〇年一一月に新築された。神殿は流造(天保一四年建造)、拝殿は神殿を覆う形式の白木(台湾桧だが)の権現造である。

参考文献
   『八尾町史(上巻)』 杉原節雄編部(私の祖父です[故人])
   『杉原大明神記録』(江戸中期)
   その他、杉原神社古記録

3つの杉原神社のホームページ、杉原秀圭さんのホームページです。もっと詳しい説明はこちらをどうぞ。

inserted by FC2 system