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「高知県の横倉山に杉原神社がある」という情報は、私がこのHPを始めた直後、8年前から寄せられていました。しかし何しろ高知と松山の中間にある山の中、私としてはついぞ近くを通る可能性もない所でした。わずかにその杉原神社の神官、竹内さんとの手紙のやりとりで、資料をいただいたのみだったのです。
今回少し身軽になってきたので調査旅行を実行しました。岡山から高知へ、そして国道33号線を北上します。越知町という盆地の町でした。そこから左へ車を乗り入れますと、急坂が待ちうけていました。やっと一台通れるような上りの道路が続きます。左側は断崖絶壁というところもしばしば。高所恐怖の私にはつらい道でした。30分あまり経ってやっと最後の駐車場です。どうやら横倉山(774m)の八合目あたりのようです。
人っ子一人いない山中にたたずむ杉原神社。その周辺は杉の巨木に囲まれていました。樹齢600年とか、すごい巨木です。深閑とした雰囲気の中、しばし過ごさせていただきました。
杉原神社から山道をさらに1キロも登っていったところに「安徳天皇陵墓参考地」と同天皇を祭ったと言う横倉神社がありました。陵墓(参)は石の鳥居と玉垣に囲まれたものでしたが、比較的新しい時代に整備されたもののようでした。また横倉神社は巨石群の上に建てられていて、その裏は断崖絶壁でした。いかにも古くからの信仰の地という位置です。この地は平安期からの修験道の地だと言われているそうです。横倉神社はそうした信仰を引き継いで、安徳帝伝説へと受け継がれてきたものではないかと思いました。 八合目あたりの駐車場から杉原神社、そしてこの横倉神社へと至る間には、さきの侍屋敷跡、安徳帝御座所跡、○○水、いくつかの古い墓所などが続いていました。現地で出会った人の話では、古墓がまだまだあちこちにあるそうです。また道中には水場も多く、古い時代に人々が生活した時代があったということは、容易に想像されました。
平家物語では、壇ノ浦(山口県)の戦いで幼い安徳天皇が侍女に抱かれて入水したことになっています。しかしここの伝説では、屋島(香川県)の戦いで敗色濃い平家が、安徳帝に従者をつけて密かに脱出させ、祖谷渓谷をはじめ四国各地を遍歴、最後にここ横倉山に落ち着いたことなっているのです。地元の郷士の援助もあり、安徳帝は23歳まで育った後亡くなられたそうです。そして一方の峰に葬られ、従者たちはその遺徳を偲んで横倉神社を建てたといわれています。
ふもとの越知町に杉原神社などの神主をされている竹内さんをお訪ねしました。今ではこの地域には平家の子孫と言う人たちはほとんどいなくて、この方も依頼されて神主になられたとの事でした。
実はこの横倉山の安徳天皇伝説の一連の施設につて、私は明治になって整備されたものではないかと思っていたのです。」しかしこの神主さんの説明から、どうやら江戸期以前にも3つのお宮が存在し地元民の信仰を集めていたらしいことがわかりました。 しかしこの「四国の杉原神社」を訪ねての旅、安徳帝伝説という一大歴史ロマンに触れることが出来、大満足の一日でした。(2005,3)
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