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杉原姓を訪ねて50年! 杉原義男さん
杉原紙研究をテーマに
 私はまだこのHPを始めて3年余りなんですが、各地の杉原さんをお訪ねすると決まって「前にも訪ねてこられた方がおられまして・・・」という話とぶつかります。その人の名は杉原義男さん。
 というわけで、今日は東京田端にその杉原義男さん(87歳)をお訪ねしました。上野のすぐ近く、田端駅までお迎えいただいたのは、ちょっと小柄な、「功なり名遂げた・・・」という印象の(し、しつれい!ごめんなさい!)やさしいおじいさんでした。
 でも、近くのレストランでの二人の杉原姓談義は、何と延々6時間にも及んだのです。

 いただいた名刺には「杉原紙研究、和紙文化研究会会員」とありました。
 『杉原紙というのをご存知でしょう。江戸時代に”杉原”というと紙のことを意味したようでしてな。兵庫県の杉原谷へも行きました。今は誰も杉原紙のことを研究しておらんようですので、私がやっておるんですわ。』
 『私のところに先祖の調べ書きが伝わっておりまして、それには”弘安天皇の頃、神官の杉原が杉の中皮をもって幣をつくる。左七折れ右五折れ、これ12カ月を型どるなり”とあって、これが和紙の始まりとされているんです。それも私の杉原紙調査の動機です』
 『杉の中皮ってご存知ですか。そう、外側の硬い皮を除いたときのあれです。それで七、五とは左右はアンバランスだということ、また奇数は吉数なんですな。』
 目を細めて楽しそうに語り続ける杉原義男さんにまず圧倒されてしまいました。私がお訪ねした兵庫県の杉原谷はもちろん、福井県の今立町にも行かれているようです。質問するまでもなく、30歳くらいから始めたという「杉原姓めぐり」を思い出すように話されます。

 

続々と出る各地の杉原姓行脚の思い出
 『出雲へ行った時は驚きましたな。30年ほど前のことですが、あんな小さなところの電話帳に70軒もの杉原が載っているんですから。さすがだと思いましたよ。』
 『でも神辺城主(広島県福山市)の杉原理興(忠興)は立派な人ですなー。毛利方の城攻めを2~3年耐えていたんです。でも民衆の苦しみを見て、毛利方の平賀氏の一騎打ちの提案を受けて、二本の矢が外れた場合城明け渡すという約束を守って、約束通り城を明け渡して撤退した、民衆を守ったというのは立派ですなー。そのためあとで復帰するわけですけれども。あそこにはすごい物語がありましたなー。』
 『尾道へ行った時でしたか。”実は私は杉原に滅ぼされた側の子孫なんだ”と文句を言われたこともありましたよ。そのとき尾道の杉原さんにも会いました。あ、府中の杉原茂さんとご一緒したんでしたか。』
 でも、私もちょっとだけ質問させていただきました。
 「飛騨のあたりにも行かれたんですか?。ダムに沈んだ杉原村があるとかいう?。」
 『ああ、行きましたよ。あそこはいかにもそういうことになりやすい地形だったですな。たしかもっと北に杉原駅もありましたね。そうそう、あちこちで神官の杉原さんを知っていますよ。富山県では杉原は元は富山平野の開拓神だそうなんですな。夫婦の杉原神がきて、婦人が病気になったのを背負って行ったという伝説があるそうです。そこが婦負(ねい)郡で、そこの杉原神社の神官も杉原さんでした。』
 『ねねの生まれたところにも行きました。名古屋から桑名へ行く途中、長良川の手前の大部庄というところ。あのへんの地形は平べったいんですね。あ、近くに有名な多度神社がありましたか。』
 当時を思い出しながら、また地図をかきながら、夢見るような義男さんのお話しが続きました

 

そして、仕事場で出会った”木梨”さんのこと
 『私が三菱信託銀行で仕事をしていた頃、木梨さんという方がこられましてね。ひとしきり話しが済んで私が、”木梨さん、あなたの祖先が杉原だということを知っていますか”と言ったら、むこうも本当はその話しがしたくてたまらなかったらしく、”勿論!”と言ってすごくお話しがはずんだことがありました。長州藩の家老をしていた木梨氏は元は杉原姓で、明治維新の江戸城明け渡しのとき、西郷隆盛と二人で城受取りをしているんですわ。いやー、あのときは奇遇といいますか。この方は啓光学園の理事をされていたのですが、木梨家は杉原信平の子孫になるのですな。』

 

福島県須賀川の杉原さん
 話しはやがてご自身の祖先の方へとむかって行きます。
 『私のところの先祖書きなんですが、あの関ヶ原が大きな分岐点になっています。あのとき先祖は上杉景勝に従って下野の国花見ケ丘(小山市)で家康軍と戦った。”花見ケ丘で杉原○○が致死”となっているんです。そのあと先祖は福島県の郡山のすぐ南、須賀川というところへ定着して、大正のころまでそこで16~17代続いているんです。』
 『私の父の代になって、東京から高知へと移住しているんです。私は父の死もあって、東京で医師をしたいた伯父のところから早稲田に通いましたが。』
 『昭和30年代まで宇都宮市に杉原村があったんです。先祖はそこの神社の神官になったそうです。杉原町は今は本町になっていますけれども。』
 も、もう六時間の話しを全部は書ききれません
 『家紋は松川菱に似ているんですが、もっと縦長になって杉の木に似ているんですな。』義男さんは手元の紙に家紋を書いてみせてくれました。  
もうあのようなこと(戦争)はおこしてはいけません
 最後にご自身のことになりました。
 『私は本当は建築家になりたかったんですが、不況でして、結局三菱信託銀行の不動産部に入ったんです。最後は菱進不動産の役員(常務)をしておりましたが。戦争中召集されて中支へ行ってきました。ああなると、人間運命論者にもなってしまいます。ちょっと伝令に出されて、その留守中に本隊が攻撃を受けて死者がたくさん出るとか。終戦後も歩いて移動するんです。もしちょっとでも病気で本隊を離れたらもう命はないわけです。ちょっとしたきっかけなんです。よく生きていたもんだと思います。もう絶対にあのようなこと(戦争)はおこしてはいけないとつくづく思いますよ。』
 このときばかりは、柔和なお顔が、ちょっとばかりきびしくなっておいででした。

 一言で50年といいますが、この6時間で出た話しはとてもここへ書ききれるものではありません。それこそ1冊の本にでもなるような内容でした。
 私もまだ「杉原姓研究」を始めたばかり。2000年代の最初に杉原義男さんにお会いしたのも何かの縁です。私もこのお話を頼りに全国の杉原さんをお訪ねしたり、連絡を取り合ったりして、まだまだこのHPを充実させようと、意を強くした一日でした。(2000、1)

 でも、上には上がおられるものです。フー、疲れた!!!。

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