杉原與太郎のお話し |
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あたりには一面の葦が生えていた。
100米ばかり南には、少し小高い 土盛りが見える。 潮止めの堤防である。
吉備の穴海と呼ばれた浅い内海は 沖に堤防を突き固めては、次々に新田
がつくられていた。道らしい道も無く、細い畦道があるのみである。
「豊葦原とはよく言ったものだ。」男は腕組みを解いて、妻や子たちを
振り返った。子どもたちは母の手にとりすがって、黙って父の顔をみすえ
ている。
男の名は杉原與太郎。生まれ育った足守の地をあとに、新天地をめざ
してやってきたのである。士族とはいえ他領故、名字を名乗れるかさえわ
からなかった。
「ようし、ここだ。」男は再び南をむくと、自分を鼓舞するようにさけ
んだ。伝えられる富士山にそっくりの山(常山)が、男の眼前にあった。
(注)「杉原與太郎(すぎはら よたろう)」(杉原源助與太郎ともいう)は、
このホームページ作者杉原尚示の今わかっているいちばん古い祖先である。
天正年間というから、戦国時代のことである。大井村鍛次屋山城主(今の
岡山市足守の東にある小山)信原氏の家老杉原何某がいて、秀吉にこの城を
落とされ、ちりじりになっていた。その後江戸時代になって、足守木下家(
秀吉の正妻ねねの兄、木下家定が初代で、もともと杉原姓であった)に仕え
家老をつとめるものや、中嶋と名乗る杉原氏などがいた。
この今の岡山市東阿曽か下足守に、大長の宮とか七社大明
神とかいう神社に関係する杉原氏がいて、都合で中嶋を名乗っていた。その
末流が承応元年(一六五二年)西田村(倉敷市西田)へ出たとき、杉原與太
郎と名乗ったというのである。
この與太郎はその後代を重ね、江戸末期の杉原友次郎(今の16割杉原の
初代)へと続いていくのである。