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早島戸川の家老屋敷は、中帯江にありました

 今「中帯江の風土記」という本の編纂が進んでいます。「豊洲の歴史」発刊に触発され、さらに範囲の狭い元の大字単位(倉敷市中帯江)の歴史本を作ろうというのです。毎月10人近い人たちが集まって熱心に議論を重ねています。その中の一人、Nさんが言われるのです。
 「どうも早島戸川の家老だった「今村家」が、かって中帯江へおられたようなんです。お墓も8代までこちらにあって・・・」という説明と共に、どさっと資料が届けられました。

奈良県天理市の子孫の方をお訪ねして

 「私の先祖は、早島の戸川家が庭瀬藩から分家するときに付き人で来まして、代々代官や家老を務めたようなんです。住まいは中帯江の入り口十字路(賽の神前)の北西側にあったと聞いています。」
 例によって、33観音巡りの途中で訪問した私を前に、今村家13代目というその方は静かに語り始めました。ここは奈良県天理市のご自宅です。すぐ隣には「天理教治文(ちぶん)教会」という大きな教会がありました。
 「明治になって10代今村市郎右衛門のとき、家屋敷を処分して早島から大阪へ出たんです。そこでその妻の千賀が子供の病気のこともあって天理教に入信します。そして明治24年に天理に引っ越してきました。のちに隣の治文教会を設立しまして、父も私も天理教本部の役員をしてきました。」
 そういえば我が家も黒住教で、母が神官をしていますし先祖は倉敷市帯高にあった大角教会所の創立にかかわったと聞いています。それもあって、ひとしきり天理教や黒住教などの話がはずんでしまいました。

墓地は中帯江亀山の上に

 「今村家のお墓は8代目まで中帯江の山の上(亀山)にあります。9代目以降は早島に引っ越したらしく、妙法寺に移っています。」
 「早島の歴史3」の付属資料「早島戸川家陣屋絵図(江戸末期)」を見ますと、一番奥に「今村良左衛門」という大きな屋敷があります。今村家9代目の人で、いただいた「今村家系譜」には「君命により今村家相続」とあり、何らかの事情により今村家を相続し、屋敷も中帯江から早島に移したのでしょう。
 倉敷市中帯江の中心地ともいえる十字路の東南にある亀山に上がってみました。ちょうど3年前に整備されたという今村家の墓は、ほぼ中央にありました。

中帯江に住み、戸川家3000石の半分の支配を担当

 いただいた「今村家系譜」によりますと、「庭瀬から早島戸川家が分家したとき、御付人として平井、中村、今村、小野の4人が来た。平井、小野氏は在府家老(江戸家老)に、中村、今村両氏は早島代官として70石となる。今村庄兵衛は居屋敷を中帯江にもらい、知行地の半分、東庄、中庄、中島、中帯江などの支配を命じられる。」(意訳杉原)とあります。
 どうやらこの今村家、早島戸川家の現地代官として、その知行地の半分の管理を任されていたいたようなのです。また「系譜」のなかには、一度今村家が断絶し、地元中帯江村の百姓たちがその存続を願い出たことなども記され、代官として地元民の信頼も集めていたようです。
 家紋は図のように「庵木瓜」という珍しいものでした。

注目される事実があきらかに

 この「今村家系譜」には他にも私にとって注目すべきことが書かれていました。  1つは「帯江の歴史」関連で「中村家」が出てきたことです。文脈からしますと、中村家も知行地半分の代官になったことになります。現倉敷市帯高の中村家、これは早く取材しなくてはいけませんね。  いま1つはこの「系譜」に「庭瀬から来るとき、家来両人を召し連れ、その子孫は今この中帯江村で百姓市兵衛太郎吉という」(意訳杉原)とあったことです。これが書かれた文政8年(1825)年、幕末近い時のの市兵衛太郎吉とはどの家なのでしょう。ここにも次の調査テーマが出てきました。(2006,5)

PS:ところで、この今村家14代目(になるのかな?)といえば、棋士今村俊也九段がいます。山陽新聞社主催の関西棋院第1位決定戦で何回も優勝するなど、現在売り出し中の若手棋士です。

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