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「豊洲の歴史」刊行からもう2年が経ちました。そこで、先日石見銀山ガイドの会のみなさんが来豊されたのを機会に、「石見銀山日帰りツアー」を企画することとなりました。編纂委員会最後の行事?というふれこみのせいか、何と29名も集まり、バス1台の大盛会となりました。時は3月末の土曜日でした。 バスは山陽自動車道を一路西へ。広島から北へ入り、浜田で日本海と出会います。お昼は「浜田お魚センター」でした。さすがに新鮮な魚介類!美味しかったです。
石見銀山着は13時でした。何と5時間半の行程。でも予定より少し早かったので、町並みを省略して龍源寺間歩(坑道)も見ることになりました。そのため5キロばかり歩くことになったのですが。どちらかといえばお年の方が多い一行にとって、ちょっと強行軍になってしまいました。ご苦労様でした。 |
桜が咲いていました |
岡山の桜は当日は2分程度ですが、ここへ来ると満開に近いのです。 「すごい、こっちのほうが早いんだ。」 「いやあれはソメイヨシノじゃあないんじゃあないか。花が小さい。」 道々、議論が続きます。 「皆さんの歩いている道は、往時は石見銀山のメイン通りです。ずっと両側に家々が立ち並んでいました。それが、あの山の上までずっと続いていたんです。」 何しろ29人という大部隊。足立さんも大きな声を張り上げてのガイドとなったようで、お疲れでしたでしょう。ありがとうございます。以後、この足立さんの解説をもとに話を展開していきます。 |
昔は銀がむき出しであったという話も・・ |
「ポルトガル人が来たでしょう、ザビエルとか。彼らはみんな商人だったんです。中国では金1枚に銀7枚でしたが、当時この石見銀山では金1枚に10枚の銀と換えたそうです。だから彼らは日本で銀を手に入れて中国で売るという商売をしようと、やってきたんです。それで難破して種子島へ行って鉄砲を伝えたり、キリスト教を持ってきたりしたんです。」 「正面のあの山がへこんでいるあたりが銀山の中心です。あそこはさっきの話よりだいぶん前の、今から600年ほど前には銀鉱石がむき出しであったという話があります。当時(室町時代)お坊さんが見つけたのですが、それが有用なものとはわからず、そのままにしたそうです。でもその後掘り出す人がいて、(露天掘りですから)あのように山がへこんで見える程になったそうです。その後は山中を坑道を掘って銀をだすようになりました。」 すごい話があるものです。そうすると当時はたぶん山口の大内氏がそれを基に財を築いたのでしょうかね? |
500を超える間歩が |
「歩いているこの左の山に銀鉱脈があるのです。大昔の火山活動で、銀が岩石の隙間に入り込んでいるのです。それが鉱脈で、みなさんが歩く方向とと平行に走っています。ですから、それと直角に坑道を掘って行けば鉱脈に突き当たることになります。鉱脈は大は30cmから小さいものは3cmていどです。それが見つかったら、鉱脈に沿って横に掘り進んで、銀鉱石を掘り出すのです。」 「そのために鉱脈に直角に掘った穴を間歩(まぶ)といいます。あれも、これもそうですが、上下左右に一定の間隔を置いて掘っています。みな番号がついていますが、これは発見された順番です。500いくつまであるようです。それぞれ事業者とも言う人がいて、掘り出した銀の3割を代官所に収めたようです。」 「往時は20万人がここにいたという本もありますが、それだとすごい人口密度になってしまいます。見つかっている家の数からしておそらく4万人かそこらだと思います。それにしても当時としてはすごい都市ですね。」 |
ついに龍源寺間歩に |
やっと着きました、龍源寺間歩。内部に入れるようになっている坑道です。 「ここから2つ目の横に伸びた坑道に注目してください。そこの上に鉱脈がわかるようになっています。」 そういえば、なんだか色の違った岩層が頭の上に横に伸びています。これを伝って横へと掘り進んだのでしょうね。 「この(横穴の)上を見てください。すごいですよ。」 なるほど、本当に人が入り込めるかどうかわからないような狭い穴です。あんなところへどうやって掘っていったのでしょうね。まさにへばりついた、のでしょうか? 「この穴は排水用です。この奥から垂直に下へ落ちていて、ここへ湧き出た水をこのアナに落とすと、下の坑道から水を外へ運び出すようになっていました。」 いろんな説明が続きます。本当に来てみなければわからないことばかりです。
出口の近くには当時の様子を描いた絵が並んでいました。 |
安原備中守ゆかりの清水寺 |
帰る途中で寄ったのは清水寺でした。安原備中守が観音様が夢枕に立ってのお告げで、釜屋間歩を発見したお礼に再建したというところです。かたわらにお墓がありました。 「安原備中は、帯江銅山や吉岡鉱山にかかわっていたようですが、石見銀山に大勢の(1,000人か?)人を連れてやってきて、その力で新間歩を開発して、徳川家康に多くの銀を納めたのです。それで、羽織などをもらい、備中守の称号も許されたと伝わっています。」 「いろいろと配慮する人だったようで、郷土の吉備津神社や早島の鶴崎神社へも寄付をしたりしていますね。」
いやー皆様、本当にお疲れ様でした。 |