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大庄屋が籠訴(直訴)をして実現した六間川

 私の郷土史の師である片山新助さんが、またまたポツリと例の調子で語り始められたのです。でもそういうときは決まってそこから大きな発展があるネタなんですね!。「お前、これを発展させられるか?」なんてまるでテストされているような私なんです。
 「西田村地理明細書上という文書があって、それを見ると六間川のいわれがよくわかるんだ。木村と言う大庄屋が籠訴をして実現するんだが、そのあと庄屋は池田藩から生涯給金をもらっているんですな。」  「籠訴」というところで片山さんには珍しく、ピッと手の振りまでついた解説だったのです。

命を懸けた大庄屋の直訴

 すごい英雄伝説ではありませんか。籠訴といえばご法度の直訴。即刻打ち首になっても文句が言えない行為です。この豊洲の歴史の中に、命を懸けて用水路を切り開いた人がいたのです。で、早速倉敷市図書館に通いました。新修倉敷市史9巻1104頁から「西田村地理明細書上」という文書が載っていました(ついでに言えば、古い倉敷市史にも載っていたのです)。「片山新助家文書」とあります。あ、詳しいはずです。片山さんご本人のところから出たものでした・・・。
 大要は次ぎのようになっています。(口語訳杉原尚示)

 「西田新田(今の倉敷市西田)は中島村(今の倉敷市中庄百舌鳥が鼻付近)庄屋木村九郎兵衛(與佐衛門)と早島の佐藤助佐衛門とで開発したのだが、浜川用水はまわしてもらえず、8・9年は草野同然で百姓達も小屋小屋を打ち捨てて立ち退くしまつ。
 木村與佐衛門は悪水川(上流の中庄などの溜まり水を排水する川)を計画して、その水を新田の用水に利用する事を考え、備前藩の(当時中庄地区の多くは岡山備前藩領、一方西田新田は旗本早島戸川領)郡奉行に近づいてたびたび交渉したが、他領だからと取り上げられなかった。
 そのまま6・7年がすぎてしまい、ついに木村與佐衛門は岡山まで出かけて、岡山池田藩筆頭家老伊木長門守のお籠にすがり、悪水川がいかに両領にとって役立つかを詳しく申し上げた。」

 江戸時代には役を飛び越えての直訴はご法度。張り付け獄門ものだったと言います。それがさらに飛び越えて、他領の重役に訴え出たのです。お手打ち覚悟の行為です。
 「その後木村與佐衛門は(池田藩)郡役所に呼び出されて事の仔細を申し上げ、計画を許可された。」
 そして現在の六間川の工事が始まったのだそうです。当初は二間の川幅だったようですが、その後広げられて四間を経て六間川になったとか。木村與佐衛門はこの功により、早島戸川家から2石をもらったほかに岡山池田藩からも生涯2人扶持をもらうことになったとあります。
 同文書では「これは木村與佐衛門が実に一命を懸けて相働いて成就したものだと伝えられている。」と書かれています。

 六間川の由来については、西田荒神様に大きな碑があるのですが、そこにはこの籠訴のことは載っていないようでした。「これはこの件をちゃんと記録して広めなくては!」とこの記事になったわけです。
 右上は、西田墓にある木村家のお墓と供養塔です。

大庄屋のご子孫は兵庫県にお住まいでした

 豊洲地区の大庄屋といえば、高沼(早高、帯高)の片山家、中帯江の永瀬家、そしてこの西田の木村家です。でも、今は木村家の跡地は全部田んぼになっていると聞きました。2号線の西田交差点から真東に約200mのところだそうです。昭和の初め頃には大きな塀だけが残っていたとか・・。
 ではご子孫は?ということで教えていただいたのが、兵庫県三田市にお住まいの(木村)洋子さんでした。秋になったばかりの1日、おじゃましました。

 「いらっしゃい。遠くからようこそ。」  少し年上のその方は私を気さくに迎え入れられて、お茶やコーヒー、ケーキ攻めになさいます。
 「なつかしいですねー。私の曽祖父の卓爾が初代豊洲村長(明治22年~大正元年)をしたあと、我が家はずっと西宮に出てしまっていたのです。戦時中に母の実家の宮崎に疎開してそこで戦災にあって、大事なものはみんな焼かれたと聞いています。終戦で父が田舎に行きたいということで、5年ばかり豊洲にいました。その時に当時の村長さんを始め皆さんに大変よくしていただいたのが記憶に残っています。」
 「私は小学校6年生でした。そのあと女学校と青陵高校とで5年間(今の青陵高校まで)通いました。歩いてです。蛙又(”きゃーるまた”といいましたが)でお友達と待ち合わせて毎日通ったのがいい思い出です。小学校の同窓会などもあり、今もたくさんのお友達とのお付き合いが続いているんですよ。」
 ”きゃーるまた”(蛙又)とはまた懐かしい地名が出てきたものです。現中帯江の、県道が六間川と合流した地点をそう言ったな・・・と頭の隅で反復しながらのインタビューでした。
 「関西大震災のときに西宮で被災しまして、こちらに引っ越しました。ですからここはつい最近です。」
 このほかにも貴重なお話しをたくさんうかがいました。

足利氏について関東の宇都宮市からやってきた?先祖

右は、木村家の明治33年ころの家族写真です。

 この木村家については、「ごさんべえさん」という私の友人が詳しい調査をされています。その資料を参考にしながら解説しますと、
 元の先祖は関東、現在の栃木県宇都宮市のあたりから、延元の頃(1336~)に足利氏の西征についてきたそうです。本職は足利氏の仏様を彫る彫刻師であったとも。
 その後の友野家や守安家(いずれも現山手村)などとの縁組の様子から、両家と同じように福山合戦にも先祖が加わったと想像されます。
 その後前出のように中島村の庄屋になり、西田新田の開発に携わり、子孫が西田村に移住したという経過をたどったお宅だということでした。

PS:木村家の長男、木村順一さんは、現在西宮市にお住まいですが、このインタビューの時には、ご病気ということでお目にかかれませんでした。(2004,9)

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