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私の郷土史の師である片山新助さんが、またまたポツリと例の調子で語り始められたのです。でもそういうときは決まってそこから大きな発展があるネタなんですね!。「お前、これを発展させられるか?」なんてまるでテストされているような私なんです。 「西田村地理明細書上という文書があって、それを見ると六間川のいわれがよくわかるんだ。木村と言う大庄屋が籠訴をして実現するんだが、そのあと庄屋は池田藩から生涯給金をもらっているんですな。」 「籠訴」というところで片山さんには珍しく、ピッと手の振りまでついた解説だったのです。 |
命を懸けた大庄屋の直訴 |
すごい英雄伝説ではありませんか。籠訴といえばご法度の直訴。即刻打ち首になっても文句が言えない行為です。この豊洲の歴史の中に、命を懸けて用水路を切り開いた人がいたのです。で、早速倉敷市図書館に通いました。新修倉敷市史9巻1104頁から「西田村地理明細書上」という文書が載っていました(ついでに言えば、古い倉敷市史にも載っていたのです)。「片山新助家文書」とあります。あ、詳しいはずです。片山さんご本人のところから出たものでした・・・。 大要は次ぎのようになっています。(口語訳杉原尚示)
「西田新田(今の倉敷市西田)は中島村(今の倉敷市中庄百舌鳥が鼻付近)庄屋木村九郎兵衛(與佐衛門)と早島の佐藤助佐衛門とで開発したのだが、浜川用水はまわしてもらえず、8・9年は草野同然で百姓達も小屋小屋を打ち捨てて立ち退くしまつ。
江戸時代には役を飛び越えての直訴はご法度。張り付け獄門ものだったと言います。それがさらに飛び越えて、他領の重役に訴え出たのです。お手打ち覚悟の行為です。
六間川の由来については、西田荒神様に大きな碑があるのですが、そこにはこの籠訴のことは載っていないようでした。「これはこの件をちゃんと記録して広めなくては!」とこの記事になったわけです。 |
大庄屋のご子孫は兵庫県にお住まいでした |
豊洲地区の大庄屋といえば、高沼(早高、帯高)の片山家、中帯江の永瀬家、そしてこの西田の木村家です。でも、今は木村家の跡地は全部田んぼになっていると聞きました。2号線の西田交差点から真東に約200mのところだそうです。昭和の初め頃には大きな塀だけが残っていたとか・・。 ではご子孫は?ということで教えていただいたのが、兵庫県三田市にお住まいの(木村)洋子さんでした。秋になったばかりの1日、おじゃましました。
「いらっしゃい。遠くからようこそ。」
少し年上のその方は私を気さくに迎え入れられて、お茶やコーヒー、ケーキ攻めになさいます。 |
足利氏について関東の宇都宮市からやってきた?先祖 |
右は、木村家の明治33年ころの家族写真です。
この木村家については、「ごさんべえさん」という私の友人が詳しい調査をされています。その資料を参考にしながら解説しますと、 PS:木村家の長男、木村順一さんは、現在西宮市にお住まいですが、このインタビューの時には、ご病気ということでお目にかかれませんでした。(2004,9)
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