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近くにあった『黒比売塚』

 郷土史の先輩池内節光さんから教えていただいた「黒比売塚(くろひめづか)」、やっと訪問することができました。来て見ると私が時々散歩で通る道のすぐ横でした。なあんだ。

 不洗観音寺から山の稜線沿いに西に伸びる観音団地裏の道は、かって倉敷方面からの観音寺参詣道でした。江戸末期から明治大正期には、きっと家も立ち並んでにぎわったのでしょう。また豊洲地区と中庄地区との境界でもあります。その道西の端あたりに、最近五日市と黒崎を結ぶ広い道路「新道」が交差しています。その交差点から東へ2軒目のお宅の裏(北側)の竹やぶにその黒比売塚はありました。隣に古い屋敷跡があり私も最初はそれと取り違えたのですが、そのすぐ左の竹林がそうでした。中心部には写真のように「おどっくうさま(かまどの神様)」がおいてありました。ここは正確には倉敷市黒埼になるのですが、同五日市の境界からおよそ100m、豊洲の歴史に取り上げてもいいかな?とこの記事になりました。

仁徳天皇の想い人

 黒比売とは、古事記に出てくる吉備の人で「黒媛」とも書き、吉備海部直(きびのあまべのあたい)の娘だそうです。美女で仁徳天皇(5世紀前半の天皇と言われ、伝説上の人物という説もある)に嫁したのですが、今で言う正妻さんの嫉妬のため吉備に逃げ帰っていました。ところがこんどは仁徳天皇が吉備まで追いかけてきて山方でいっしょに菜を摘んで歌を詠んだりしてすごしたと言われています。

 おきべには 小船つらつく 黒崎の
     まさづこわぎも  国へ下らす

 という歌から、黒比売のいたところが「黒崎」だといわれています。また「山方」というところだとも言われているようです。

岡山県下に数ヶ所の「黒比売」伝説の地

 都窪郡誌(903頁)には「中庄村大字黒崎字片山は仁徳天皇の寵妃黒媛の生誕地なりという」とあります。どうやら戦前からこの説があったようですね。山方は片山にも通じるというのでしょうか?
 ところが、さすがは吉備の地。「黒媛はこっちだ」という『伝承の地』がいくつもあるのです。いくつかあげますと
 吉井町、総社市上林、同山手西郡、津山市山方、そしてこの倉敷市黒埼、倉敷市玉島黒崎・・・。はては有名な備中国分寺横の「こうもり塚」が黒媛の墓だとか、いや時代が合わないとか、いろんなところが「黒媛はここだ」と手を上げているようなのです。
 でははたしてどこが?なんていっても私にわかるわけはありません。

方墳?屋敷跡?

 ではこの豊洲の外れの黒比売塚はどうなのでしょう。10数年前に池内さんがこられたときには、下の写真のように立て札があったそうです。かすかに「宮地両見謹書」と読めます。宮地さんという人が立てていたのでしょう。周囲を探しましたが、この日は見つかりませんでした。少し竹林を奥に入って見ますと、たしかにここは1mくらい高く段になっています(右の写真)。15~20m四方でしょうか。「すは!方墳」なんて身びいきをしてみたくなるのですが、どう見てもだれかの屋敷跡のようです。ま、黒媛屋敷の跡とできないこともありませんが、中央の瓦の祠は近世以降の「おどっくうさま」です。1000数百年前にここに黒媛が住んでいたかどうか?それは文字通り竹「藪の中」です。それにここは当時は隼島という海に浮かぶ島だったはずですね。
 まあ夢を壊さないためにも、これ以上の深入りは止めたほうがいいかもしれません。ということで、五日市と黒崎の境辺りにある『黒比売塚』のレポートでした。(2006,2)

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