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106歳のおじいさんは、帯江小学校の校歌を口ずさんで!

 五日市に106歳の元気なおじいさんがいる!!。そんなお話しを聞いておっとり刀でインタビューにうかがいました。槙尾襄(のぼる)さんです。106歳といえば、岡山県下の男性では109歳に続いて2番目の高齢の方。で、「最近下の句が出なくなったかな・・」と私よりも確かな頭を(失礼!)していらっしゃったのです。

広島原爆救援で2次被害の生き証人!

 「若い頃は他所に出て暮らしました。北海道から九州まで知っています。」どうやら今で言う転勤族だったようです。お話しでは三和銀行(現UFJ銀行)へお勤めで、大阪、神戸、呉、山口、京都、宇部、光という地名が出てきました。「第2次世界大戦の頃には岡山支店に勤務、当直の夜に岡山空襲にあい九死に一生を得ました。また、広島原爆の翌日には広島市内に入り救援活動に奔走、後年2次被害で腸に腫瘍が出来て岡山大学病院で手術した事もありました。」こんなところにも原爆被害者の生き証人がおられたのだ!という私の感激を知ってか知らずか淡々とお話しが続きます。
 「父の延太郎は日清・日露の両戦争に出たんですな。日露戦争で帰還のときは、郡役所から連絡があり、倉敷駅からここまで戦勝パレードして、(当時の)豊洲村全域から人が出て歓迎会があったんです。そのときに戦勝記念で植樹した楠が今は大きくなって、倉敷市の巨樹に指定されています。植樹式には郡長も出席し盛大でした」なるほどお宅の裏手にみごとな楠が見えます。ちなみにその槙尾延太郎さんは、大正10年から昭和14年まで、3代目の豊洲村長を勤められています。
 「入り江の帯に似たりとて・・・」いきなり歌が聞こえ始めました。あ、聞いた事が・・なんてものではありません。懐かしい帯江小学校校歌です。思わず私も唱和してしまいました。それも3番まで。もちろん私のほうが連れられてになってしまいましたけれども。当時の五日市は帯江小学校に通っておられたとか。「今でもそれが校歌ですよ。」と申し上げると、嬉しそうに目を細められた槙尾襄さんです。

槙尾3兄弟のこと

 「私の祖母は酒津(諏訪家)から嫁入りしたんですが、何よりも頭を持って来たんです。それで6人も子供が出来たんですが、みんな頭がよかったんですな。」ふと誇らしげな顔になった襄さん。「それがもう2~3代続いたらよかったんですけどねー。」なんてお隣でチャチャを入れられるお孫さん。さすがに当意即妙の受け答えは血筋と申しますか。あ、ただ私の印象なのですけれども。
 「長男の延太郎(豊洲村長)のほかに次男の橘衛(きつえ)は、叔母の嫁ぎ先古屋野家に養子に出て、京都の同志社中、三高、京大を出た後スタンフォード大学に留学したんです。帰郷後に倉敷市長(昭和12~22年=1937~1947)を勤めました。戦後に進駐軍との交渉をしたんですが、むこうがこんな田舎にとんでもない大人物がいると驚いたそうです。アメリカ留学で英語もペラペラ、事情にも通じていたんですから。」うーん、すごい。
 「3男の宏平も、(早島の)古屋野家(前出古屋野家の分家=医師)に養子に出て、京大医学部卒業からドイツ、フランスに留学したんです。最後は長崎大学学長だったんです。」(岡山県歴史人物事典によれば、長崎原爆被災後も長崎医大の復興に努め、長崎大学長も2期、長崎市名誉市民)
 なんと「槙尾3兄弟」ともいえる麒麟児3人を輩出した名家が豊洲にあったのです。

福山合戦の後で

 そもそもこの槙尾家は、羽島の槙尾家から別れてこの襄さんで8代目だそうです。またその槙尾家は南北朝の時の福山合戦で新田方について敗れて土着した家だとか。お墓は裏手の山中、五日市墓から少し西に独立してありました。
 父延太郎さんの影響で漢文をたくさん諳んじているという襄さんの口から何度か李白、その他の詩文が出てきます。家の中は襄さんの書がいたるところに飾られていました。最後に襄さん最近の俳句のひとつを紹介してこのレポートを終わりたいと思います。

 吉備の山 片肌脱いで 春化粧     東柯

 うーん。なんだか風流の中にもちょっと色っぽさをただよわせて、私好みですね。でもなかなか読めない名句とおみうけしました。(2004,10)

PS:私のこの感想に襄さん「私の俳句は読めばみんなどこかしら色気があるんだよ。」と。 あ、長生きの秘訣をうかがったような!ついでにもう一首

 幾山河 老鶯(おう)ひとり のど自慢     東柯

裏山にある槇尾家墓所その五日市墓所への途中にはこのような「畑跡」がいくつも

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