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第1章 ドキュメント・村人のくらし

色づいて ふまれた麦の 穂は太る

 これは「風土記」なんです。まずは編纂委員会に寄せられた村の古老(ご本人は古老でないと否定されますが?)たちの証言からご紹介しましょう。冒頭の俳句は、中帯江に長く伝わる俳句の会での一首です。どうです、中帯江も文化盛んな地でしょう!

1、 旧正月のこと

 「昭和の初期は旧暦が使われていました。農家の正月は旧暦で、およそ1ヶ月も違っていました。しかし村役場、小学校は新暦での行事で、村の中は新旧混ざった状態でした。」
 およそ80年前、昭和初期について話されるのは永瀬固さんです。
 「昔は稲作の裏作に麦を植えていました。諸島に麦をまき、発芽を待って、まず、麦の間を耕す中打ちをします。谷間の稲株を鍬で掘り起こし、麦の間に置いていきます。 新正月も過ぎますと、麦はしっかり根を下ろしており、鍬入れ作業が待っています。」うーん。今の人に理解してもらうのは困難かもしれませんね。まして「そのあと『牛んが』で耕起します」なんて理解不可能でしょう。当時(昭和初期)の農家には牛を飼っていて、農作業には欠かせない戦力だったのです。『牛んが』とは、牛に引かせて田んぼの土を掘り起こす利器なのです。
 お話が続きます。
 「旧暦の年の瀬が近づくと、半年の買い物帳の支払いがあります」
 おや、当時はみんな通帳(かよい)で掛売りだったのでしょうか?生活必需品を購入した代金は、盆と暮れの支払いだったのです。スーパーで毎回現金取引・・・という現代とどっちが良かったのでしょうね?昔のほうが自由だったかもしれません。
 「旧正月が近づくと家ではすす払いで、煙突の掃除を竹ざおの先に藁(わら)をつけてします。」当時はどの家も『かまど』の時代で、煙突がありました。年末の大掃除はそこから始まったのです。
 「主人は家でお飾りを準備します。藁でお飾りを編んでダイダイ、山草、昆布、ほんだわらなどいろいろと取り付けます。」
 「神棚には二つ折りの半紙の上に山草を敷き、重ね餅の上に豆餅とみかんをのせてあり、手作りのお飾りが一段と彩を添えます」
 「そして旧のお正月は、ゆっくりと朝のお雑煮におせちを頂いて新聞を読むくらいです。みんなで神社にお参りをします。」ここらあたりは、現代に引き継がれているようですね。

2、 冬山ととんど、初観音のにぎわい

 永瀬さんのお話は続きます。「正月明けは、山の松ごかきでした。冬の寒い日は、山が大にぎわいでした。雑木や山シバや松葉などを持ち帰られるように束ねます。割り木用に雑木を鋸でひきました。1年の燃料をみんな冬山に求めたのです。」
 「旧の1月14日はお飾りのとんど焼きです。集まって焼く、家で焼くそれぞれで、書初めも一緒に焼き、灰が上に昇る様を楽しんでいました。」
 「1月17日は不洗観音の初観音で、朝からのお参りが県道にあるバス停からお寺さんまで続いていました。」
 今では回数の少なくなった「早島経由倉敷岡山間のバス」も当時は地元住民の必需路線でしたから、観音道バス停からの人の波が推し量れますね。
 「地元の家々では祭り寿司を作って、嫁いだ娘たちや親戚を呼んでもてなし、昼からは観音さんにみんなでお参りしました。」
 旧正月は当時の中帯江の人々にとって、本当に楽しい行事だったのでしょうね。

3、 水道が来る前のお話

 次には、近藤綾子さんのお話です。これはもう戦後の事になりますが・・・
 「私が嫁いできた昭和21年(1946)当時は村には水道がありませんでした。しかし中帯江には昔から良い水の出る共同井戸があって、飲み水を釣瓶(つるべ)で汲み上げ、前後の水桶一杯にして、オーコ(てんびん棒)で担いで台所の水がめまで運ぶんです。老人には無理で、若い男の仕事でした。お風呂となると大変で、近くの古井戸も利用しておりました。」
 「農家の台所(釜屋“かまや”と言われた)には土やレンガのくど(かまど)が座っていました。別に七輪(炭のこんろ)があり、魚を焼いたり、お茶を沸かしたりしました。」
 「秋の楽しみはキノコ狩りです。松タケ、シメジ、ムメタケなどたくさん採れて夕飯のごちそうになりました。」
 「冬には山仕事です。おばさんたちは連れ立って山へ出かけ、、日が暮れるまで働きました。マツゴ(松葉など)を四角に積んで縄で縛り、背中に負って持って帰るのです。大変でしたが、その間のおしゃべりも楽しいものだったようです。マツゴは家の軒下に重ねて置き、年中かまどやお風呂の燃料として使いました。」
 「中帯江に嫁いで来て一番困ったのは交通が不便だったことです。倉敷駅からも遠くて、歩くか自転車しかありませんでした。自転車のタイヤも空気を入れるものでなく、ガタガタ音がしてなかなか進まないひどいものでした。」

4、 麦の取り入れと、田植え

 ここで再び永瀬固さんに登場願いましょう。
 「6月の初めは麦の刈り取り時期です。裸麦から刈ります。済んで3~4日してから小麦を刈ります。刈り取りが済むとコギ(脱穀機)にかけます。平ベルトで繋がった発動機(エンジン)は石油のもので、初動だけがガソリンでした。そして水冷で水タンクがありました。
 麦わらはあとでいろんな使い方をする貴重品でした。収穫した麦の実は大篩い(ふるい)で荒ゴミを除き、筵(むしろ)で天日に干した後、唐箕(とうみ)にかけます。実のないものなどを風で飛ばすのです。マンゴク(選別機)でモミを大小に分けて俵に詰めてやっと出来上がりでした。」いやー、一口に麦の収穫といっても、機械のない時代、大変な作業でした。

 「麦の収穫後はさっそく田の掘り起こしです。ここでも『牛んが』が登場します。更に『飛行機マンガ』という道具も使って、土を小さくこなします。田に肥料を入れて田植えを待ちます。」
 「田植えは6月20日から25日の間に始めました。上流から徐々に送られてくる用水の水を待たねばなりません。水集会というものもありました。要所の樋の管理で、各田んぼに水が張れるようになります。田に水が入ると、牛を追い込み『代かきマンガ』やバター板(長い板)を引かせて整地します。」
 「苗代から苗を取って束ね、畦(あぜ)から苗を投げる人、苗かごで担いで配る人。配り終わるとみんな田植え綱に沿って集まります。横一線で植えていくのです。腰を伸ばし伸ばししながら徐々に後ろへ下がり、綱を打ち替えながら植えていきます。」
 「田植えが終わると『根付け祈祷』です。いつものとおり真言宗の人は貴舩様(貴舩神社)で、日蓮宗の人は石塔様で、それぞれに毎年にならって祈祷の行事を行いました。先達について拝んだ後、子供たちにお菓子を接待します。もちろん大人たちにはお神酒も出て、楽しいひと時をすごすのです。」

5、 い草刈りは暑さとのたたかいです

 「中帯江でも近辺と同じようにい草の栽培が盛んでした。梅雨の末期、入り陽が良ければ鎌を研いで翌日に備えます。坪刈りから始め、天気を見ながら雇人(日雇=ひようさん、と言いました)に電報を打ったりして連絡しました。岡山県北や香川県など四国方面からたくさんの人が出稼ぎに来られていました。それぞれの家で常連の人たちが決まっていたようです。」
 「朝3~4時ごろに起きて朝刈りの後で朝食です。日が昇りますと、染め土で染めたい草を、刈ったあとの田や、付近の道という道に干してゆき、村中にい草が干されました。11時を廻ると昼食です。手を洗い飯を食べて、一服すると干し返しです。干したい草を裏返すのです。暑さに耐え土煙をあげるなかを干し返し作業が続きました。」
 「昼過ぎの刈り取りは、筵などで影を作って作業していました。なにしろ7月末の炎天下でしたから。汗を拭く間もない作業で、午後2時になるともう食事でした。きつい作業ですから、食事休憩は日に5回もありました。この午後休憩にはスイカとか水物が出ていました。」
 「2時の食事がすむとまた少し刈り、朝立ちの(朝干した)い草を取り込みます。翌日もう一度干すため、束ねて田の中へ積んでおきます。午後にはよく雷雨の襲来もあり、油断はできません。もしそうなるともう戦争です。大人も子供も、みんな総出で干しているい草を取り込みました。夕方6時ごろにはにぎりめしくらいで小休止。また一汗かき、日暮れに鎌を置きます。」
 「日が西に傾く頃、刈ったい草を染め場に運びます。染め土を溶かしたタテ1m、ヨコ1.5mくらいの染めつぼに人が入り、い草の束を漬けて、回しながらまんべんなく染め土が付くようにします。染めたい草は水切りのため垂直に立てます。」
 「作業が済むと汚れた体を川で洗い落とします。順次風呂に入りますと午後8時をまわり、やっと1日の作業が終わり、夕食です。うちわで蚊を追いながらの夕食でした。

 こうした1週間が終わると、日雇さんたちは手当てをもらって帰り仕度です。なにしろ炎天下での1日16時間以上の作業です。当時としては破格の日当でした。『来年もよろしくお願いします』農家からも、来年の予約を取り、喜んで足早に帰っていきました」

6、 跡植えと田の草取り

 永瀬固さんのお話、続きをもう少し聞いてください。こうした農作業は昭和40年ごろまではあまり変わりなく続いていたのです。
 「い草を刈った跡にも稲を植えました。7月下旬ですから、田植えからもう30日前後は経っています。運搬に便利な田の一角に寄せ植えしてあった苗の株は、10本ぐらいに成長しており、根の張った多きな苗を抜くのには力がいりました。一方、田んぼの方はい草の屑に火をつけて燃やします。そのあと、縦に張った糸綱に合わせて、細い杵ですばやく穴(直径5cm、深さ6cmくらい)をあけていきます。日が少し傾きかけたころ、苗は運び配られて、その穴に順次植えていきました。これでやっとい草刈りの大仕事が終わりです。」
 「そのあとの夏の盛り、追い肥入れや田の草取りが続きました。手押し除草機(亀の甲と言いました)で、稲の間を縦横に押していきます。その後は手作業で『塗り田』を行いました。朝早くから田に入り、四つんばいになって株の根元を手で塗るようにならしていくのです。伸びた稲の歯先で顔をこすり、汗も出ますし蚊もいます。雑草を除く作業ですが、今のように良い除草剤がないときでもあり、大変な作業でした。」

7、 七夕とお盆

 里芋の 葉の露をもて 子らが書く

 「七夕様が来ます。当時は旧暦でしたので今の8月上旬でしょうか。子供たちは、丸い里芋の葉っぱの中の露を集めてきて、硯に入れて墨をすります。そして短冊にそれぞれの願いを書きました。立った七夕飾り(竹ざお)の下には、割り箸を使ってキュウリやナスで牛や馬をこしらえて供えました。夜はおはぎを供え、一畳台(縁台)を出して寝転んで家族で星を眺めたりしていました。もちろん織姫と牽牛のお話つきです。」  「やがてお盆が来ます。仏壇をきれいに掃除して、表には水棚様を立てて、廻ってくるお寺さんを待ちます。年に1度の迎え盆なので、位牌を床へ移す家もあります。生花や仏菓子、仏膳が並びますとお盆らしくなります。お寺さんも忙しく、拝み終わって傘をさして次へと行かれました。」
 「午後から2日目には親戚の人たちがお墓参りに来られます。お茶とお菓子でしばしの歓談。久しぶりの顔合わせの楽しいひと時でした。」
 「表の水棚様に杓で水祭りをし、日が暮れるとローソク、線香に火をつけて迎え火をたいて拝んでいました。送り盆にはお餅や団子をお供えし、家族そろって合掌し供養をします。供物と送り団子をハスの葉の上に乗せてろうそくをともし線香を立てて送っていました。川へ流す人もいました。船を手作りにして送った人もいました。」
 「8月24日は地蔵盆です。朝早くから子供たちは観音寺のお地蔵様をはじめ、村内や金田、羽島、帯高にまで地蔵巡りをして、お接待の菓子をもらうのが楽しみでした。」

8、 昭和初期までは手織りだった畳表

 「田の作業が一段落しますと、い草を畳表に織る作業が始まります。長屋(納屋)にある手織(てばた)を取り出します。い草の根元の袴を取り先を捨てて用意します。手機にひめ(麻糸)をかけ(取り付け)ます。
 い草に水霧をし、指で指丈(さしたけ)に入れて足で踏み込んで、い草が糸へ入ると押さえて織り込んでいくのです。根を詰めた作業で1枚織るのに3時間もかかったでしょうか。出来上がった製品は麻引き(長いい草で織った畳表)は10枚を1束としました。競売場へ出品するのです。
 この表打ちは八朔(旧暦8月1日)の団子を食べてからは夕なべ(夜作業)を始めました。夕ご飯を食べ夜の10時ごろまで働きます。それからは毎日夕なべで、稲刈りの前日まで表打ちをします。また、気ままに隣家の人とおしゃべりをしたり、たまには「エビスキネマ(倉敷の映画館)」に映画を見に行ったりもして、気晴らしをして、日々の表打ちに精を出していました。当時映画は5銭から10銭でした。
 手織りの盛んな村にも、昭和の息吹とともに、動力織機が入った話が流れてきました。(昭和8,9年ごろ)」

9、 畳表の競売場のこと

 「毎年盆前に畳表の競売が始まりました。中帯江地区の南の端、帯江田の県道沿いに競売場がありました。みんな織った畳表をそこへ持ち込んで出品したのです。畳表の信用組合が組織されていて、その組合員が出品したのですが、一般の人や五日市などの人も出品していました。競売は週1回で稲刈りが始まるまで行われていました。
 午前中に出品し、午後は早島の茣蓙(ござ)問屋さんがめいめいに品定めをして値段をつけて入札していました。そして夜は開札です。出品者は出てきて結果を聞いてかえり、家族に知らせるのです。値段が付くのはうれしいものです。村の畳表は高級品として良い値がつき、この値段が機織り仕事の励みでした。」

10、秋祭りのこと

 「稲刈り前に秋祭りがありました。当地区では早島の鶴崎神社です。本社の吉備津神社のも含めて組合ごとに幟旗が2日前に立てられます。
 各家では祭り寿司(ばら寿司)を作って祝いました。年に何回かのご馳走で、「ゆりわ」にいっぱい作っていました。もちろん親戚の人たちも招いていました。
 祭りの2日目、10月21日には鶴崎神社の神輿が早島から豊洲の中を練り歩きます。ただこの中帯江にはきませんで、お参りに行っていました。早島のお祭りは鬼が名物で、戦後の1時期までは子供たちは鬼装束をつけて、地区内を練り歩いていました。吉備津彦と恩羅(うら)の伝説にちなむ鬼だったのでしょう。」  「このお祭りは今もあまり変わりなく残っています。昭和20年代までは翌日の3日目が小学校の運動会と決まっていて、お祭りのごちそうの残りをお弁当にして、村中あげて運動会を楽しんでいました。」

11、秋の収穫のこと

 「『秋の夕焼け 鎌を磨げ』と言われます。有茜の空を眺めて新暦で11月に入るや、1軒始めるともう競走のように皆んなも鎌を持ち出して稲を刈り始めます。2~3反も刈り、ひと区切りついたところで稲を束ねてつり干しにします。田の中に三脚を組んで竿を渡し、それに稲束をかけて乾燥させるのです。」今でも県北などでは時々見られますね。

 「そうそう稲を刈った後、吊干しのあとで、麦を蒔いていました。平鍬で土を浅く削り、種を蒔いたあとその上に堆肥をかけていました。各家では来年に備えて、春先に稲藁と土を使って、丸い土ぐろを作り、堆肥を作っていました。」
 「吊干しの稲が乾燥すると脱穀です。脱穀機は実とごみを分ける新型が普及していきました。発動機で動かせ、2~3人が並んでコギ(脱穀)ました。子供たちは小学校高学年にもなると、田んぼ中から稲束を担いで、この脱穀機のところへ集める役を果たしていました。終わったあとの稲束の山の中に隠れて遊ぶのも楽しかったです。
 「脱穀したもみは、筵(むしろ)に拡げて、3日くらいかけて天日干しにしていました。
 最後はとうす(籾摺り)です。干したもみを『とうす』と呼んだ『籾摺り機』を通してもみ殻をむくのです。この作業は近所中が集まっての共同作業でした。 その玄米を米撰機(べいせんき)で小米を除いて俵詰めします。こうして多くの作業を経てやっと玄米になるのです。『とうす』を引いて、各家をまわって賃引きをして歩く人もいました。
 各地区(小字)ごとに日を決めて、「俵出し」がありました。高く積まれた米俵が、検査員の品質検査を経て出荷されました。」
今でも農協などに出荷されますが、米俵(60キロ)はもうなくなり、今では30キロ入りの紙の袋になっていますけど。

12、いよいよ、い植えの大仕事

 「12月も半ばになると、田を起こし、い植えの準備に懸命です。整地の大方済んだ家では、い苗を掘り、土を落として納屋へ運びます。これから株分けです。筵(むしろ)を折って、その中にひざを入れて座り、2~30燭光(ワット)の薄明かりの下で、夜なべをします。 『昼は苗堀り、苗たたき、夜は苗かぎ夜中まで』
 苗の常備ができると、念入りに均した田んぼに、朝から隣家の応援を受けて、日のあるうちに何とか田んぼ1枚を植えて済ませます。片付けをしながら、『い植えは、氷があっても雨天でも決行してはじめて正月がやってくるのだなあ』とつぶやく年の暮れでした。」

13、「モンペ」と配給

 近藤綾子さんは、非農家の立場から戦中戦後を振り返られます。
 「東北地方の作業衣であったモンペが戦争中(昭和15~20年)は学生から大人まで女子の標準服となりました。手持ちの木綿絣や絹物、中でも丈夫な銘仙の和服はモンペに作り変えられました。活動に便利でしたから、日常着から外出着まで幅広く用いられました。男子には現在の学生服に近い国民服というのがありました。
 衣類は戦争中は衣料切符制で絹の銘仙が1反10円ほどの公定価格でした。嫁入用の訪問着などはいきおい闇値になり高いものでした。米も戦時中一人2合(360cc)の配給制が戦後しばらくまで続きました。農家は供出米が強要で保有米が少なく、そこで農村の非農家も買出し(闇米)に行ったり、衣類と交換してやっと手に入れたりしていました。その他、味噌、醤油、砂糖、マッチなども配給制となり、役場から各組合毎に配給されました。乳児にはミルクと砂糖が配給されましたが少量でした。私の長男の時には、山羊を飼って乳を搾って与えたり、もち米の粉の重湯と配給のミルクを混ぜて与えたり、栄養を保つのにも苦労しました。」
 農地改革のため、旧地主も昭和21年から年貢米がなくなりました。

14、中帯江信用組合のこと

 ここで、昭和5年から10年ばかり存在した「中帯江信用組合」について、ご主人の士郎さんから聞いた話を近藤綾子さんに語ってもらいましょう。  「昭和恐慌(昭和2~8年頃)の頃も、農村では経済活動が活発で、銀行に頼らず農家が自主的に組合を作って、生活必需品や農業資材の購入、販売、組合員に対する小口金融まで取り扱うようになってきていました。今の農協の前身ですね。中帯江、五日市の有志が相計り設立した、『中帯江信用組合』というものがありました。豊洲小で教員をしていた近藤寛三郎が退職を機に自宅を拠点にして運営を引き受けました。醤油、酒、酢、砂糖、菓子、豆粕(い草の肥料)などを取り扱い、ハガキ、切手も売っていました。店が無く交通も不便な中帯江にとっては、今のコンビニ的な役割を果たしていたようです。
 また、納屋南の軒下には、常に大八車が置いてあり、夜中でも六間川を経由して川舟がちょうぜんまで入り、大八車で豆粕を取りに行っていたということです。  主として通帳に書き込んで盆と暮れに清算する『掛売り』でした。清算のときにはい草代金やお米の代金でも清算していたようです。酒も取り扱っていたため、夜中に酒飲みが戸を叩いて暴れたり、酒を買いに来た子供が転んでこぼしてしまい、泣き泣き来て、もう一回入れてもらったという話も残っています。あ、もちろん当時は量り売りだったのですね。大きな醤油ダルが今に残っています。(写真)」

 「第1章 村人のくらし」、古老のあやちゃんと、かたっさんの心覚えで構成させていただきました。


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