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第2章 不洗観音寺のこと

  不洗観音寺はこの中帯江のシンボル的存在で、お寺さんと地区民が常に二人三脚で時代を歩いてきたと言っても過言ではありません。そして今や不洗観音寺はどこまで行っても「帯江の観音様」「不洗の観音様」と言えば知らない人はいないほどの有名寺院になっています。
 今、国道2号線から北へ入り、中帯江の中央を通る道路から観音台団地を見ながらやってくる若い人たちが後を絶ちませんし、本堂へとあがる石段の両脇には、無数の絵馬がかかっています。『安産の観音様』として、参詣者の層がとびきり若いのもこのお寺さんの特徴です。生まれたばかりの赤ちゃんを中心に、若い夫婦とそれを囲むようにした老夫婦とが仲良く参拝している姿が続きます。
 お寺さんもそうした特徴をうけてか、現代においても文化的な活動に力を入れていて、毎年五月十七日の薪能は、一九九一年からすでに一六回目を数えています。

 この不洗観音寺は、一九五四年仁和寺末より単立本山となり、祈祷中心の寺院として、遠く九州や関東からも多くの参詣者があります。

 で、まずはその縁起二つを引用してみます。

1、景光山観音寺の縁起 (不洗観音寺略縁起より)

 『この話は天平年間(729~49)のことでした。秋もなかばの静かなある夜半、増慶上人はふと目ざめました。見ると、部室の床の額に一面に霞がかかっていました。じっと見るともなく見ていると、その霞がひきしぼられて、その間からすうっと立派な僧形が現われ、上人を見て、
 「われは大和の長谷寺に住む者で、そなたの信心に感じてここへきたのだ。世の中には子孫がないために、家が絶えるのを苦にする老人や、また難産のために、あたらうら若い女が命を失ったり、ことに生まれる子とともに悲運な最後を遂げる者がいて、まことに悲しいことである。我を信ずる者は、これらのわざわいを除いてとらせようと思う。そなたもよくよく今申したことを心得るように。」
  と言うや、またしても紫の美しい霞に包まれ、その貴僧の姿は消えました。紫の霞はやがて薄れましたが、このお告げを受けた僧慶上人は心に決するところがあって、翌日未明に起きて、俄に旅装をととのえ、大和に旅立ちました。むろん長谷寺へ向かったのです。
  山を越え野を過ぎてようやく大和に入った頃は、はやひと月あまりも経っていました。
  国を出た頃は山の紅葉も美しかったのに、今は木枯らしの吹く頃で、大和の深山はことに淋しいものでした。冷たい夕日が松の梢にふるえて見える頃、ようやく長谷寺にたどり着くとすぐご本尊様を拝みました。
  読経して顔を上げると、本尊のそばにお二方の観音様がおられました。上人は驚いてよく見ると、いつかの夜夢枕にたたせ給うた貴い僧の面影に寸分たがわないではありませんか。上人は詳しい事情を長谷寺の大和上様に申し上げ、幾度となく願った末に、ようやく承諾を得てその観音様をいただいて帰り、帯江景光山に安置しました。
  そのときからこの山麓に清らかな水が湧き出しました(閼伽井・あかい)。そして「赤ん坊が生まれて三日三夜たって、この水で洗ってやると、無病息災で成長する」と言われるようになりました。不洗観音というのは、この観音様を信心すると、お産が軽いうえに三日三夜洗わなくても良いくらいきれいな赤ちゃんが授かるので、この名が付いたと言われています。』
  この縁起は、「倉敷の民話、伝説 森脇正之編」にも載っています。
  景光山不洗観音寺は倉敷市中帯江八二〇にあり、天平年中、僧慶上人が開基したといわれ、本尊は十一面観世音菩薩です。また脇持として不動明王、毘沙門天がまつられています。山内の守護神は「三宝荒神」「十二社権現」。山外の鎮守神は「貴布彌神社」です。

2、本堂にかかる『縁起額』は戸川安清が

 本堂には写真のような縁起額があります。これは早島戸川家から分家した中島(中庄)戸川家(五00石)五代戸川安清(やすずみ)が、長崎奉行当時の天保10年(一八三九)に奉納したもので、およその口語訳をのせます。


 『大和の国城上郡泊瀬(はつせ)の寺(長谷寺)において、十一面観世音のお姿(二丈六尺の像)をつくったとき、その余った木をもちて本尊十一面観音(二尺五寸)、および脇持二体を作って一〇〇余人の僧にて開眼供養をした。増慶上人の弟で林景光という人が、その本尊と脇持二体を、吉備津神社と同じときに造られたこの寺(不洗観音寺)と林家に収めたと旧記にある。
 この観音堂に至る坂ノ下に閼伽井(あかい)があり、この村で生まれた子は、三日三夜後にこの水で産湯を使うと、以後穢れなく育った。これが「不洗観音」の由来である。(略)
 山内には三宝荒神、十二社権現が守り神として祀られている。山外の鎮守神の「貴布彌神社」は、このお寺がこの地に遷られた頃より、海路往きかう船の守り神として祀られ、この村の産土(うぶすな)として崇められてきた。
 以上この寺の住職寂如より聞くままを記す』
 この戸川安清(号蓮仙、1787~1868)は、この地の江戸期の戸川一族では最も出世頭で播磨守となる。目付を経て3度の長崎奉行を勤め、勘定奉行にもなった。西丸留守居、ののち当時の旗本の役職としては最高位の留守居となっている。隷書をよくし、その書や日記が多く残っている。早島の戸川記念館には、長崎奉行として赴任するときの行列の様子が残っている。(早島の歴史1より要約)

3、備中三三観音霊場と、瀬戸内三三観音霊場

 平安時代にはじまったという西国三十三観音霊場は近畿一円にあるのですが、江戸期以降にはそれを真似た観音霊場が各地に開設され、西国巡りの代わりに多くの人たちが巡ることとなりました。
 この流行は、江戸後期の第一次ブームに始まり、明治末から大正年間の第二次ブーム。そして平成になってよりの第三次ブームへと続いています。
 江戸時代後期、寛政二年(一七九〇)に開創された「備中三三観音霊場」では、この不洗観音寺は三十番です。ちなみに一番は高梁の深耕寺、三十三番は岡山市吉備津の青連寺(廃寺)になっています。三雲芳兵衛(和泉出身)がこの霊場の多くの寺へ、山門石標柱を寄進していて、不洗観音寺へも文化11年(1814)に寄進しています。(右下写真)
 昭和末期になって始まった「瀬戸内三十三観音霊場」では、この不洗観音寺が一番となりました。兵庫県西部(播磨)から広島県東部(備後)へと広がるお寺さんのなかで位置的にも中央を占めており、不洗観音寺が「瀬戸内三十三観音霊場」開設に積極的な役割を果たしたことがうかがえます。
 尚、中帯江の領主、早島戸川家は、安政四年(1857)江戸屋敷に不洗観音を勧請しています。

4、ご開帳と江戸時代の賑わい

  今の倉敷市帯高にいた大庄屋片山庶祐が江戸末期の万延元年(一八六〇)の不洗観音寺のご開帳の時の様子を詳しく書き残しています。以下「早島の歴史1」(通史編上P445)から引用します。

 『開帳は三月十七日から一カ月であったが、雨が多かったとして閏三月二十七日まで十日間延長した。初日は太陽暦の四月七日で桜の季節である。知行所の役人は参詣の群衆の中で、けんかやもめごとがおきることを恐れ、村内もあまり派手なことをしないことを指示した。周辺の村々も含め村役人に警護を十分にするように達した。しかし露店が立ち並び、芝居、相撲、手踊りなどの興行があってにぎやかな開帳となった。以下庶祐の「懐中手控」から準備や開帳のもようを記してみよう。
 三月六日、中帯江村庄屋・庄之介ら村役人が、露店などの差配する市頭と準備について協議、また同日から周辺の村々にもあいさつに廻った。十二日、中帯江村役人が「遠方からの参詣人のために煮売りをしたい。そのための雨除けの小屋掛けをしたい」と願い出た。知行所は小形のものならと許可した。
 開帳初日の十七日、笛の好きな庶祐は曼荼羅音楽を頼まれ、息子の譲右衛門とともに出演した。十九日、知行所の役人が領主にかわり代参、大庄屋がお供をし、中帯江村役人が案内した。二十日、中帯江村役人から手踊りをしたいと伺い出、村方三人の者から取締りを十分にするとの証文をとり許可した。
 二十七日、早島沖新田村(現、倉敷市早沖)の若者連中が境内で禁じているにわか(即興の芝居)をし、知行所の役人の奥方たちが見物していたということも大庄屋・片山庶祐の耳に入った。庶祐は奥方から事情を聞くことも、役人に話すこともできず、ただ取り締まりの不手際の断りをするだけであった。沖新田村役人を呼び出し厳しくしかり、他の村々にも二十八日の村役人定例会合の席で取締りを十分にするよう申し渡した。
 芝居は二十八日からはじまった。播磨の新三一座がのぼりをはためかせ、にぎにぎしく顔見世をした。不洗観音の開帳もしだいに盛り上がってきたが、片山庶祐が知行所の役人に「御手先に不都合なことが多い」と訴えている。取り締まりに出ていた知行所の足軽や軽輩の者たちが、知行所をかさにきた乱暴な行動も多かったらしい。
 閏三月二十七日開帳は終わったが、知行所の役人は四月十日になって、中帯江の村役人が開催にあたって幕府領の倉敷村役人にあいさつに行かなかったこと、知行所に無事終了のあいさつをがあいなかったこと、会期中不行き届きのこともあったことについて大庄屋が厳しく調べるよう指示した。中帯江村庄屋・庄之介は、「開催前の倉敷村役人への挨拶は前例も無く、大庄屋の指示もなく気がつかなかった。おしかりをうけたので十二日倉敷へ断りにおもむいた。不行き届きの件は大庄屋より適当にお断りしてくれ」と逃げている。不洗観音の開帳は三十三年ごとで、明治27年の開帳のときには芝居小屋もかかっている。(資料「演劇定約証」81頁参照)』

5、江戸から明治以降の観音寺

 この不洗観音寺、江戸時代には、全国的に有名な寂智、寂如、寂照という方々が住職をされ、明治には普学という、廃仏毀釈で荒廃した京都の大覚寺・仁和寺・醍醐寺を復興された醍醐寺三宝院43代門跡が住職をされていました。
 また大正・昭和にかけては、高野山大学教授・大阪宣真女学校長の密道が住職でした。
 その後は、昭和17年から平成9年まで密仁、そして現在の密正住職へと引き継がれています。
 明治期の不洗観音寺は大変な賑わいであったようですし、冒頭に触れましたように、現在も安産の観音様としてにぎわい、薪能など文化活動の活発なお寺さんとして知られています。

6、不洗観音寺の参道界わいについて

 1、坂口屋のこと

 明治、大正、昭和初期について少し振り返ってみよう。まず林繁さんの所を見てみよう。
 不洗観音寺入り口に屋号を坂口と言った家があります。それが林家です。その屋号の由来は家の前から観音寺境内に至る参道は今は石段になっているが、当時は石段はなく緩やかな坂であったのだろう。そこで坂にかかる入り口ということで誰が言うともなく坂口と呼ばれる様になったのではないだろうか。当時は出入り口が参道に面していて、2階建ての格子造りで普通の民家とは、一味変わったたたずまいであった。
 当時あの一帯は不洗観音寺の参詣者と帯江鉱山関係者で大変にぎわっていた様である。そこでその人たち相手の宿泊施設即ち旅館を営んでいた。
その当時の資料としては今は何も残っていないようだが、ただ一つ決定的な証拠が残っている。それは旅館の看板である。ケヤキの板に「御やど坂口屋、萬五郎」と書いた物が残っている。そして萬五郎という人は宮大工で、なかなかの人物であった様である。坂口屋母屋の裏側に建物があり、大工仕事の作業場と物置があった。それは現在は跡形もない。
 彼の建築物としては、不洗観音寺正面回廊、貴舩神社、近藤家本宅(大正11年)などが現存している。  そして萬五郎の息子の彦太郎さんは義兄近藤鍬之助と共に明治37年アメリカはサンフランシスコへ渡り、ホテル小川を営んでいた。昭和2年ごろ林繁少年が小学校へ入学するため帰国し、後に豊洲村助役(昭和12年9月)を勤めたひとである。

2、藤の棚

 次は「藤の棚」(坪井章さん)付近について少し述べてみよう。坂口と藤の棚の中間位の所に一軒家があり藤尾さんという人が住んでいたそうである。その上の段に前場政吉さんと言う人が住んでおり、その人は宮大工であった様である。観音寺の仕事をしていたそうです。そこから少し下がったところに坪井さんの家があり、通称藤の棚と呼んでいた。藤の棚とは屋号で、その由来は文字通り家の前に藤の木があり、観音寺参道を覆って藤の棚が出来ていたため、それがそのまま屋号として呼ばれる様になったんだろうと思われます。
 坪井さんが現在の家に入る前は尾郷原総平さんと神原さんが住んでいた。尾郷原総平さんは、明治初年アメリカに渡り、神原さんも出たため、その後に坪井長次郎、おりんさん夫妻が入ったものである。長次郎さんは単身カナダ・バンクーバーに渡り、後に残ったおりんさんは飲み物(ラムネ、サイダーなど)ニッケのような菓子類、そして酢等も販売していた様である。一時期、畳表)(中継ぎ)も織っていたそうです。暑い時期などは、不洗観音寺参詣人にとっては藤の棚の下の日陰で飲み物でのどを潤す絶好の休憩場所であったのではないでしょうか。そして藤の棚の住居の裏には現在も昔の建物の基礎部分が少し残っており、そこには2階建ての建物があり、観音寺参詣者、おもに鉱山関係者相手の飲食の場所であったようである。現在では跡形も見られない。

3、前原のこと

 藤の棚を少し下がった道の右側に前原と今住が並んであった。今住さんは、現在は中帯江の東端警察官舎の少し東に出ている。
 今住の住居跡はどんどん亭の寮となっており、その隣の前原であるが、跡地には山下さんが住んでいる。  前原は屋号であるが、その由来は、小原波五郎さんの旧姓でそれが屋号となっている。波五郎は落合町河内の出身であった。
 波五郎の長女が小美津で養子をとり、子を持ったが早く死亡したため、改めて作州から養女静子を迎えた。小美津なる人物は読み書きソロバン等が堪能で、なかなか達者であったようだ。養女の静子は教員として35年間小学校に勤めた。
 玄関を入って右側には、陳列棚のようなものがたくさん置いてあり、家のものはこの部分を店と呼んでいたようである。いわゆる萬屋として糸や布、醤油等々売っていたようである。併せて質屋も営んでいた。昭和の初期には既に商品は置かれてなかった。
 正面にはねずみ入らずのような戸棚があり、床は板張りであった。その戸棚の前には帳場があったのだろう。そして左側の一段高くなった所には物置部屋があり、いろいろなものが置かれていた。おそらく質種に預かった品々であろう。それから三味線が何本も置かれていたようである。
 その部屋の前を更に左に行くと、そこは廊下となっていて、部屋がいくつもありその部分からは2階建てになっていた。道路に面した部分には格子がはまり、一見して一般の民家とは異なっていた。おそらく観音寺参詣、鉱山関係者小料理屋か飲食の出来る所であったのだろう。地元の者も時折は、藤の棚や前原に出向いて芸者等を上げて大散財をした様である。
 そしてその母屋の裏には倉庫と馬小屋があった。なぜ馬小屋と不思議に思うであろうが、これは商売に必要な物であったのだ。その商売とは油である。当時は電気もなく家の灯りは油かローソクであった。時代劇で見るあんどんである。皿のようなものに油をそそぎ、その中に灯芯を浸して、それに火をつけるのである。灯芯はイ草の芯の白い部分を使ったのが最もよく、灯りも明るかったそうである。その油等を運搬するのに馬が必要であったのだ。馬の背に油の入った瓶を振り分け荷物にして、馬に運ばせたのである。行く先は高松稲荷や吉備津の辺りまで行っていた様である。

7、五つの観音道と、中庄三十三観音石仏

 江戸時代中期以降にぎやかだったという不洗観音寺。かってはほぼ五方向からの参詣道、いわゆる観音道があったようです。
 一つは中帯江の南端、今も「観音道」というバス停があり、道しるべが残るところからの道です。ここは当時も倉敷から早島への街道で、かって宇喜田秀家が築いたと言う「宇喜田堤」の後だと言われています。この堤防により中帯江の多くがやっと陸地になったのです。そこからまっすぐに新田地帯を横切り「せの神(塞の神)」のところから山地に入ります。ここはかって代官屋敷(今村家)と大庄屋屋敷(永瀬家)があったところでもあります。そしてここからはかっての門前町ともいえる町並みが、観音寺下まで続いているのです。
 第二は、西の倉敷から福島、黒崎を通り、山の稜線を通って観音寺へと至る道です。西から山に入ったところに地蔵堂があり、途中には「黒姫塚」という伝説の地もあります。今は観音台団地の上を通る道になっているのですが、いくつかの石仏や祭神もあり、古くから家並みがあった様子がうかがえます。
 三つ目は東からの道です。倉敷市松島の両児神社西の道しるべから南へ続きます。ここは江戸時代に岡山藩が整備した「鴨方往来」からの観音道です。このルートには、道々小さな石仏三十三観音が立ち並んでいます。入り口から少し南の三十番から始まって二十九、二十八番というように、JR中庄駅東から倉敷高校横、マスカットスタジアム前の十九番へと続きます。
そしてここもかっての門前町かと思われるような家並みを経て山へとあがっていくのです。十四番をすぎたあたりからゴルフ場帯江コースに入ります。コースの中を通り、クラブハウス前の六番を経て観音寺正門の一番へと至ります。各石仏は江戸後期に順に整備されたものらしく、「〇〇講中」などとかかれたものが多い。かっては備前からもこのルート沿いに多くの参詣人があったのでしょう。
 四つ目は北からです。同じ鴨方往来の中庄百舌が鼻踏切北に道しるべがあります。ここから中庄地区の古い町並みを縫って観音道が続いているのです。今の自動車学校下から山へと入って、ゴルフ場クラブハウスのところで東からのルートと合流しているようです。このルートにも石仏観音が祭られているのですが、二十七番から始まって、二十八~三十二番と続き、観音寺境内の三十三番へとつながっています。二十六番がないのも不思議です。このルートは元岡山藩領だった生坂方面へと伸びており、総社、高梁方面からの観音道であったと思われます。
 最後に、早島丘陵の南側の道を取り上げます。倉敷から中帯江へ、また早島から中帯江へ、丘陵の南に沿って、中帯江の中央部にいたり、第一の道へとつながります。ここも多くの人たちが往来したのでしょう。

8、貴舩神社のこと

 倉敷市中帯江、不洗観音寺の西に「貴舩神社」がある。
  不洗観音寺本堂の天保一〇年(1839)の観音寺縁起には「また山の外の守り神である貴布禰の社は、観音様がこの地に遷られし頃より、海路往き交う船の守り神として祀られ、またこの村の産土神(ウブスナカミ)として崇められてきた」(口語訳)とあり、江戸時代以前の相当古い時代からこの神社が存在したことはまちがいないようだ。
  次に、尾郷原家(中帯江)文書に「御行列」があり、これは文久二年(一八六二)八月に「氏神様当所貴舩宮へ御入の時」の行列として、五三人もの共ぞろへが列記してある。「御入(にゅうぎょ)」は正遷座祭のことで、改築の為一旦他へ移っていた神様をもとに戻すときである。幕末期の賑わいがうかがえる。
 明治45年、不洗観音寺(普学住職)が多方面より寄付を集め、中帯江の宮大工林萬五郎、前場政吉によって再建された。
  また昭和六年の「寄付者芳名碑」。このときに貴舩神社の拝殿、石段などが新築されている。このときの寄付者は「当山(観音寺)三、三〇〇円、永瀬又七一〇〇円」とあり、林、大橋、大原などの倉敷商人や地元の有力者の名が続く。この社殿が現在のもので、そのときには棟上の餅投げが行われ、屋根の垂木が見えていたそうである。

9、寺の中になぜ神社があるのか

 日本にもともとあった神道と、6世紀に入った仏教は初めぎくしゃくしていた。しかし東大寺建立に当たって、応神天皇を主神として祀る宇佐八幡宮が宇佐より上京し、天神地祇(天の神、地の神)を代表して、東大寺建立を祝福して以来、神と仏の仲良い関係が生まれた。
 その後弘法大師によって本地垂迹という本地の仏・菩薩がさまざまな神の姿をかりて現れ、衆生と縁を結んで仏教に導きいれるというやり方をおしすすめた。いうならば仏教を広めるためにもともとの神道をかりたということになる。また、仏教寺院の土地を守る神として、寺院境内地に神社をおまつりした。
 しかし、明治政府は神仏分離、廃仏毀釈の政策のため神社と寺院を分離し、仏を廃棄してしまった。四国の金毘羅さん等も、もともと寺院境内にあったものが、分けさされた。小さいところは分けなくてよかった。
 敷地内に狸塚があるが、一般の人が持ってきて祀ったものである。また道通宮と関係があるとかも言われている。貴舩さんは「山外の守り神」とあり、中帯江地区一帯の守り神、つまり氏神様である。

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