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第4章 帯江銅山・山の神の独り言

 やあやあ、我こそは「山の神」なり!。えっ、知らないって!。もう、面倒な世の中になったもんじゃなー。自己紹介などしてしんぜようかな。  そもそも日本人の自然観には、「万物に神宿る」とか「八百万の神(やおよろずのかみ)」とかいっての、人間たちの周りのいろんなものには、みな神様が居られるという考えが長いこと続いてきたんだよ。そこここの岩や、松の木、山や森、みんな神様がいて、大切にしなきゃあいけんものじゃったんよ。まあ、究極のエコロジーなんじゃ。
 山や森も、西洋では魔物が棲むらしいけれども、日本では精霊が住む神聖な所なんじゃよ。
 で、われはこの、中帯江と中庄の間の山を守る「山の神」じゃといったら、信じてくれるかのう。まあ、信じるかどうかは別にして、この山には神がいるということだけは、覚えていてくださいな。あ、神がこんなことお願いするとは、まこと世の中変わったもんじゃのう。
 じゃが、今日はこの山の「かね気」のお話をせよと、編集委員がうるさいのでのう。我が内臓である銅鉱石、銅山の話を、少々しようかと思うんだぞえ。

1、 誰かが掘り始めた銅鉱山

 岡山、おっと当時は吉備といったわえ。ここの山に銅などの金属鉱床が眠っているのは、かなり前から知られていたらしいのよ。もちろん「山の神」の我は、数十万年前から知っておったんじゃがのう。人間どもに知られたのは、奈良の大仏建立に当たって、ここの銅が使われたという、まあ神話に近い話があってのう。真実は我のみが知るのじゃが、内緒・ないしょじゃ。
 その次に早島出身で、あの石見銀山(島根県)を世界的な銀山に押し上げた功労者の安原備中守という人が、その前に金田のあたりで掘っていたという話もある。今から400年前のことじゃがのう。

2、 明治初めの開発

 平和じゃった江戸時代は、この山も平穏じゃったのう。不洗観音さんが次第に盛んになったくらいじゃ。まあ、黒崎鉱山とか吉田鉱山とかの名が古文書にあるようだから、江戸時代にもちょっとづつこの山で銅を掘っていたのかな?
 盛んになったのは明治に入ってじゃな。明治政府が「日本坑法」を決めて、誰でも鉱山を開発できたり、地主の権利を制限したりして、いっぺんに鉱山開発が進んだんじゃ。最初はもちろん地元の人間が主導権をとったんじゃがのう。中帯江の種野誠一っつあんが明治5年にまず始めたんじゃ。そうしたら中庄の人たちも遅れてはならじと、参入したんじゃ。
 明治の10年代にはもう私の体中の20数箇所に穴が開いてのお。内視鏡ならぬ坑夫たちが毎日出入りしたんよ。そりゃあ盛況じゃった。明治15年にはここが県下の産銅量の40%もあったらしい。それもこの山の西半分の狭い範囲に集中しとったからのう。

3、 次第に大資本の経営に移る

 始めはこうして地元の人間がやっとったから、わしも応援しとったんじゃがのう。1つは慣れん鉱山経営だったことや、掘る人間、それも慣れた人がなかなか確保できなんだらしゅうて、だんだん赤字経営になっていったらしいんじゃ。なにしろわしゃあ山の神じゃけん、経済のことは不慣れでようわからんけどのう。
 なんでも、次第に村外の人が経営する鉱山(坑口)が増えていったらしいんじゃ。三菱商会(三菱商事)なども参入して競争が激しくなったんじゃが、結局坂本金弥という人が全体を買い占めて「帯江鉱山」と名前をつけたらしいんよ。明治24年のことだったかのう。
 この坂本金弥が経営を始めてから、それまでの人力から機械化が進み、鉱石や湧き水の運搬にはトロッコを使い、蒸気機関で動く巻き上げ機、動力で動く送風機などを使った洋式溶鉱炉などが設けられたんよ。見ていたわしなど眼の廻るようなことじゃった。
 六間川(南六間川)のほとりに鉱山専用の船着場があり、資材はトロッコで運ばれた。必要な電力は福島の自家発電所から供給されてのう。
 こうして規模を拡大した帯江鉱山は、銅の採掘量や収益では明治40年ごろに最高になったらしい。ここの粗銅は大阪で再精錬されて輸出にまわされていたらしい。ほかに銀や鉛も取れていたんじゃよ。何しろ山の神のわしが言うことじゃ。まちがいない。  普通の鉱山はほとんど山奥にあるんじゃが、ここは海から近く、直接船も着けられるということで、まあ立地にめぐまれて急成長したんよ。

4、 九州などからも鉱山労働者が

 鉱山の労働者は全国各地から来ていたんよ。四国・九州・新潟県や青森県からもきていて、1,100人に及んだという。農閑期には地元の人も働きに行ったらしい。鉱山経験者が必要だったので、九州の炭鉱や佐渡の金山経験者は優遇されたらしいな。
 大寺というか、今の倉敷自動車学校の下あたりに社宅があり、号令長屋と呼ばれたそうな。まあ飯場で、朝早くから班長の大きな号令が、近くの西の院というお寺さんにも聞こえたという。
 日常の生活用品は鉱山の調達部で間に合ったが、周辺には小料理屋や食料品店ができ、市街地よりも3年も早く電灯がついて賑わったそうな。
 この中帯江でも鉱山に関わって商売をしたり、定住する人も出てきた。従業員の中にも、休日には倉敷市内の小料理屋に繰り込んで、はでに遊んだものもいたんよ。百姓の人夫賃が15銭くらいのとき、鉱山では日当平均で30銭から70銭くらいの時代じゃった。

5、 水と煙の公害をめぐって

 鉱山といやあ公害がつきものよ。なにしろわし(山の神)の内臓を取り出そうゆうんじゃから。ろくなことにならんわ。この山の銅鉱石は主に黄銅鉱でかなりの硫黄分をふくんでおり、鉱山から流れ出た水は川や田を汚染し、精錬すれば硫黄酸化物による大気汚染が発生するのは当然じゃ。
 こんなことは昔から知られており、江戸末期には金田で銅山を開発するという申請を「田畑が荒れるから」と地元が断ったりしておったんじゃ。それで、明治になっての開発も、たいてい公害防止の協定を含むようになっておったんじゃが、地元以外の大資本がからむようになってから、それもままならんようになってのお。
 精錬所の排出ガスのため、周辺の山は松が枯れてハゲ山となったり、黒崎、鳥羽、仁部方面では稲の減収、い草の先枯れ、魚が死ぬなど、大気、水、田畑の汚染が頻発したんじゃ。特に北の中庄村側が深刻であったため、明治30年の頃の記録では、村議会と補償問題がおきておる。南側の中帯江にはそういう話は残っていないようだがのう。
 鉱山会社側は、明治42年になってやっと精錬所を犬島(岡山市南部)に移転したけれどものう。旧の精錬所の煙突が長いこと残っていて、村の古い人はみんなしっとろう。

6、 労働災害について

 鉱山には公害と共に事故がつき物じゃというけどの。今にして思えば安全管理の問題もあるんだろうよ。帯江銅山で最も大きいのは、富田唯八の落盤事故といわれている。明治5年かれは招かれて中庄の猿曳坑を発見したが、明治15年に事故死したんじゃよ。不洗観音寺西塀の外に、亀の上に乗った珍しい墓があって、碑文に詳しく鉱山師の心意気がかかれておるよ。
 そのほかにも事故や争いで命を落とした人は少なくないのう。西の院境内や、ゴルフ場内に供養塔がいくつか建てられている。  坑内での重労働で、怪我や呼吸器病が多かったので、鉱山会社は2名の医師を常駐させて、患者を早期に療養させていたという。
 これらのことは、我の体内でおこったことでもあり、この山の神としても心痛むことであったが、いかんともしがたかったわ。後世の人間どもが教訓にしてくれるといいんじゃがのお。

7、 閉山とその後

 小さな山で、県下の40%を産出するという乱獲をしたから、大正期(1912~)に入ると、産出量も減って経営難となったらしい。大正2年には藤田組に売却し、大正8年にはもう操業を停止しておる。
 昭和の始めにはもうあのはげ山にも小松が生え、山つつじが美しく咲き、つつじ山といわれたんよ。周辺の村人は弁当もちで山登りを楽しみ、三味線や太鼓の音も聞こえ、小学校の遠足もあり、春の山はそれはにぎやかになってきたものだ。われ(山の神)もやっとほっとして、それまでのストレスも解消していったわえ。
 元精錬所の煙突だが、児島虎次郎が酒津の自宅から描いた「酒津の農夫」「酒津の秋」には、煙突が2本描かれている。小さいほうが先に倒され、もう一本もその後、太平洋戦争中に爆撃の目標になるからと倒され、鉱山のシンボルはみな消えてしもうたのお。
 昭和35年ごろまでは、まだゴルフ場の南斜面、現在のゴルフ練習場の下の辺りには、横穴式の坑道が3つ残っとたかのう。子供たちのかっこうの探検場で、不気味で怖かったと聞いた。今は跡形も無いがの。
 最近はこの山も、団地ができたり、ゴルファーが芝刈りをしたり、おっと、観音様も若い人のお参りが増えたとか。にぎやかになったものじゃ。なになに、わたし?、そうこの山の「山の神」じゃ。こんどは「風土記」をやる言うんで特別出演をさせてもろうたが、まあ世の中が平和なうちはそっと隠れていようかねえ。
 誰か一人でも、我のことを覚えておってくれたら、うれしいのお。
 じゃあみんな、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ・・・・

8、鉱山跡を尋ねて

 取材班は平成18年9月24日、鉱山にかかわる遺跡を求めて、池田陽浩著第1、2集の当時の写真をたよりに、黒崎・中庄方面に足を延ばした。
 先ず、鉱山専用の船着場、当時銅の精錬用や発電用の石炭の積みいれ、銅鉱石の積出港として使われていたところ。写真によると中庄交番南の南六間川の辺り、深い淵となって残っているが、コンクリートの護岸からは、当時をしのぶことは出来なかった。  写真の黒い煙突は発電所のものと思われる。倒されたものが現在も残っているという情報をもとに探して歩く。
 住宅の間に雑草の茂った辺りが、発電所のあった跡らしいと、夏草や栗の木を押し分けて奥へ進んだ。敷地の一番奥、東の田との境に黒褐色の大きい物体が横たわっていた。”これだ”みんな一斉に声を上げた。耐火煉瓦で造られた大煙突だ。
 根元は直径2.80mもある八角柱だ。壁の厚さは80cm、長さ10.3mもある。
 煙突の高さは50m。昭和6年ごろまでは立っていた。そのころ煙突の先が六間川に落ちたと言われている。池田さんの聞き取りによる。
 傍らに煙突の根元らしい構造物。また数メートルはなれた場所に機関部の炉が残っていた。焼け焦げた耐火煉瓦やこびりついた鉱物に、しばらく当時の最先端の工場を想像して、感慨深いものがあった。
 次は、黒崎北、旧東紅園の近くの三野さん宅の植野清子さんに聞き取りに。

植野清子さん(大正四年生まれ)より聞き取り

 私の父親は発電所の技師であった。小学校3年のとき、発電所が止んだから、父は柵原鉱山に転勤したので私も柵原の小学校に転校した。ここには小学校3年までいた。そのころは煙突は立っていた。敷地が広かったから、敷地内でよく遊んだものだ。前の六間川ではよく泳いだ。周囲は全部田んぼで、い草や稲を植えていた。(鉱毒のため、年中水を溜めておかないと稲が出来なかったとか)
 家の前の道を隔てて、すぐ鉱山である。柵で囲った坑口がまだ2~3ヶ所残っているはずだが、今は木がうっそうと繁り、山にはとても入れそうに無い。

植野工さん(大正2年生まれ)より聞き取り

 植野さんの家からは横たわった煙突がよく見える。現在私の家が建っている所は、発電所の事務所の跡です。小学校3,4年のころ(大正12年ごろ)までは発電所は動いており、ボイラーは2基あって黒い煙を出していたのを覚えている。
 当時は別の場所に住んでいたが、六間川で泳いだり、発電所の南側の広場で遊んだものだ。六間川には船がよく出入りしていた。トロッコがあったことは知られていない。
 煙突はレンガを取るために倒したが、セメントがよくくっついていたので、レンガを取り出せないため、現在まで残ったとのことである。


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