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第五章 中帯江の神や仏たち

 おっと、山の神君がでたんなら、あとはわれわれ、地元の神さんや仏さんの出番じゃな。観音さん関連はもう 出られさったから、それ以外ということで・・・。このコーナーは、地元で長いこと郷土史を研究してこられた 、永瀬虎一っつあんをひとつ我々の代理に立てて、解説してもらいますわい。とらいっつあ~ん。
 「お~い。何々、わしゃあ、よう知らんぞ。でもまあいちおうしゃべってみるかのお。」

1、 なこーびの「せーのかみ」

 なこーび、あ、いや、わしらの世代は中帯江のことをずっと「なこーび」と言ってきたから、もう口癖なんで すわい。その中帯江の真ん中とも言えるところに、昔から「せーの神」いう小高い所があってのう。わしらも子 供のときから何の神さんじゃろうと不思議に思よったんじゃ。でも、今でも中帯江のシンボル的存在じゃのう。
 「せーのかみ」がいつ何の目的でできたのかわからないが、主神は地神様で、大きなモクの木が3本あり、子 供たちがよじ登って実を取ったりして遊んでいたものだ。
 この中には今は山の上から下りてきた「庚申様」もあって、いつも子供会がお祭りをしとる。
 「せーのかみ」の字は「瀬の上」「「瀬の神」「瀬の守」あるいは「畝の神」「畝の上」などと想像しとった んじゃがのう。この前「福田史談会」の高橋さんがこられて引導をわたしてくれたわいの。
 「塞の神(さいのかみ)」じゃそうな。聞けばあっちこっちにあるんじゃとか。村の入り口にあって、疫病な どが侵入するのを防ぐんじゃそうな。そういえば「ふさぎのかみ」とも読めるのう。「賽の河原」の「さい」と は字も違うらしい。
 ここには地神様と共に「岐の神」というものもある。「さかいのかみ」すなわち昔の村の境だったんかのう。
 せえでものう。わしは本当に「塞の神」かどうか、今でも疑問に思うとるんじゃ。納得はしとらん。
 ここは昔から村の全ての神事の始まりと終わりの場所なんじゃ。中でも木野山様をお迎えしてのお祭りは圧巻 じゃった。青年団がお神輿を川へ放り込んだりして。元気なものじゃった。今でもむかいに消防機庫や公民館が ある。川掃除や観音様のお祭りの自転車預かり、体育会の練習などもここが拠点じゃった。「せーのかみ」の下 で、観音道と早島と倉敷に至る道が交わり、十字路には何時の頃からか常夜灯が建っていたが、今は小高い所に 上がっている。
 まあ、ここは中帯江のシンボル的存在じゃから、いつまでもみんなが覚えとって欲しいのう。

2、 「石塔様」または「法界様」

 ここもなんで「石塔様」とか「法界様」とかいうんじゃろう。もう昔からの言い伝えが絶えてしもうたわ。さ きの「せえのかみ」から西へ100mくらいのところにあるお堂がそうじゃ。
 「おっと、虎一さん、そこは私に解説させてつかーさい。」
 あ、大森荘市さんか。そりゃああんたが住んどったすぐ下じゃし日蓮宗だから詳しいな。では頼まあ。(と言 うわけでこの項は大森荘市さんの解説です)
 『石塔様とはあそこに三本の石塔が祀られているからだと思います。法界様というのは、あそこが中帯江の西 の境になっていて、そこへ建てられたからでしょう。今でも「西之端」という屋号の家が近くにのこっています 。三つの石塔は、日蓮聖人孫弟子の日像聖人を祀ったもの(右側)、日蓮宗のお題目石で「南無妙法連華経法界 萬霊等」と刻んだ元文元年(1736)のもの(中央)、「大覚大僧正」と刻んであり、1340年ごろ(南北 朝時代)備前備中に日蓮宗をひろめた大覚を称えたもの(左側)と、いずれも日蓮宗関連の石塔です。
 現在も毎月12日に女性有志により「お経をあげる会」がひらかれているほか、毎年11月22、23日には 、報恩講というお祭りがされています。中帯江の日蓮宗信者の信仰の中心といった場所なんです。
 それともう一つ・中帯江の東のはずれ、金田との境にも石碑が建っています。やはり日蓮宗御題目宝塔で「享 保8年(1724)中田5人、宮崎5人」と、なっていますから。西の石塔様のよりは12年くらい前のものの ようです。ここも大覚様が布教された跡とか言われて「法界様」とも言われています。』
 あ、ありがとう。わかりやすかった。でも荘市っつあんも緊張して、標準語じゃったのう。

3、 イボ神さまと潮満岩伝説

 「イボ神さま」、ここは有名で、わしも昔イボを取ってもろうたことがあるんで。「いぼかわぐう」という石 柱もあり、貴舩様と同じように古くからの土地の神様じゃった。
 観音様の駐車場から少し奥へ行ったところを右に入ったところじゃ。玉垣に囲まれた清水があるのがそうじゃ 。岩と岩の間に水を湛えていて、昔から枯れることが無かったそうじゃ。
 玉垣には寄進した多くの村人の名前が刻まれているが、ミツ、フミ、カメなど女の人が多い。
 この水を「イボ」へつけ続けると、イボがころりと取れるんじゃ。信じる信じないは個人の自由。いまどき迷 信という者もあろうが、まあ信じるものは救われるとか?。なやんどる人は一度お試しあれ。効いたらもうけも んじゃろう。
 ここも昔から中帯江の自慢の場所じゃ。
 そうそう、ここは昔「潮満岩」という伝説の場所でもあるんじゃ。
 『昔、医者と武人が女性を擁して船でたどり着いて住み着いた。それぞれにイボコロリの名医となったり、慈 悲深き産婆となって人々を産みの苦しみから救い、武人は産土(うぶすな)の神となった。その船が今も岩の下 に沈んでいて、踏めばカンカンという音がすると聞いたことがある。』
 この3柱が「イボ神様、不洗観音様、貴舩さま」じゃという。それはともかく、昔はいかに水位が高かったか らというても、イボ神様のあの場所に船が着いたとは考えにくいんじゃ。しかし昔は連山のごとく岩が海へむか って露出していたのがこの中帯江なので、こうした伝説が生まれたのかのう。

4、 中帯江にもある「寛政四国88ヶ所霊場」

 ここは輝さんかのう。この前資料をくれたし。お願いします・・。というわけで、この編集委員会事務局の永 瀬輝宗さんの登場です。
 『では失礼して。中庄大寺の西の院さんと鳥羽の宝憧院さんが参拝のお世話をされている「寛政四国八十八ヶ 所霊場」というのがあります。寛政年間宝憧院28世の覚道法院が開いたと伝えられています。交通機関のなか った昔、四国へ行くのが困難な時代でもあり、四国霊場をまねたミニ霊場で、中庄一帯に小さいお堂があるんで す。そのうちの33,34,35,36番の4つがこの中帯江をも巡っているんです。金田からきた古い道沿い と、観音様境内とですが、寛政というと今から200年前。みんなが巡ったのでしょうね。おっと私もこの前西 の院・宝憧院さんのご案内で、3回目を巡らせていただきましたけど。その際遠藤の地区では、檀家の方々の暖 かいおもてなしやお接待の品をいただき、ほどこしの心に大いに感銘したんです。』
 ふーん。そう言やあ、最近観音様とか四国八十八とか、巡る人が増えとるようじゃなー。世の中不安なので、 仏様にでもすがりたい気持ちのせいじゃろうか。

5、 中帯江の道しるべ

 最近は小学校でも地域の道しるべを教えとるらしいが、ここでふれておこう。昔の宇喜多堤の跡といわれる県 道の観音道バス停に道しるべがある。高さは140センチ、一辺がほぼ28センチの四角柱。正面(西)に「ひ だり あらわすくわんおん道」、北面に「右 ことひら道」、南面には「明治十三庚亥年十一月 永瀬弥曽太郎  永瀬喜平治」とある。変体かなをまじえ、達筆で深く彫ってある。昔の人はこの道標を見ながら、不洗観音寺 へ参ったんだろう。

6、 お大師講、山上講とお日待ち

 この中帯江には今でも講事がのこっとる。ここは、近藤綾子さんにもう一辺登場してもらいましょう。どうぞ 。
 『まずはお大師講。真言宗の人たちのお祭りで、弘法大師の徳をしのび、3月20日の夕方に集まってお経を 唱えます(看経)。床の間に大師の掛け軸をかかげ、膳、花、線香、果物などをお供えします。正月と3月で道 具は各家に持ちまわり、仲間内の親睦にも欠かせないものでしょうね。

 次に中帯江では山上講というものを今でもやっています。山上様すなわち修験道の開祖役の行者(えんのぎょ うじゃ)を拝む民間信仰の行事です。修験道は神仏混合で山伏の宗教といえばわかるでしょうか?。正月、4月 、9月の年3回、夜7時過ぎから10時ごろまでです。正月と9月は「お日待ち」と言って、豊作を祈願し、昔 は翌朝まで続きましたが、今は12時過ぎたら終わります。当番の家では祭壇を飾り、お供えをして、昔はお膳 をだしたものですが、今は酒肴とお茶、お菓子で済ませています。先達に従って全国の神々とお経をとなえ、そ の間法螺貝を吹き鳴らし、ちょうど山伏の行を思わせます。そのあとお札を刷ります。「奉唱大峯山上大権現・ 家内安全」とやっと読める版木はずいぶん古いものです。現在も続けている家はずいぶん少なくなりましたが、 これも地域の親睦の場としても大切と思います。』
 ふーん。山上講というのは珍しいと思う。いつごろからやっとるのかのう。興味あるぞ。

 ということで、神様や仏様方、このへんで勘弁してつかーさいな。

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