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第六章 用水のこと

 中帯江の南の地域、いわゆる平野部は新田地帯です。水田で稲を育てるために、用水が縦横に張り巡らされていて、そこで育った若者たちは、他所へ出るとあまりの景色の違いに戸惑ったりするそうです。「道の横には川があると思っていたのに・・・」
 上水道が引かれるまで、用水路に面している家では川市(かわち・かうぇーち)があり、日常生活のなかで洗濯をはじめ洗い物をする洗い場として大いに利用されていました。

1、元は八ヶ郷用水

 そもそもこの地方は、豊臣時代から江戸初期に全国の半分を占めたという、岡山県南の海の埋め立てての新田開発の、一番古い地域に属します。したがって用水の歴史も古く、始まりは天正13年(1585)といわれます。
このとき以来「八ヶ郷用水」と言われてきました。八ヶ郷とは、この用水を計画し利用する8つの村のことで、当時の「浜村、子位庄村、東阿知村、三田村、西の庄村、五日市村、二日市村、早島村」です。中帯江は早島に属していたようです。
旧の三番川用水は主要な水路として五日市から中帯江のほぼ中央部を通り早島町金田へと流れています。

2、3番川用水は2箇所の道路、水路をくぐって

八ヶ郷区域は用水幹線の不良、排水設備の不完全等により渇水時には推量が半減することが多く、干ばつの被害がたびたびありました。昭和14年(1939)の大旱魃はみぞうのもので被害も甚大でした。このため食料増産、農業経営の安定を図るため農地開発法に基づき県営事業(国の補助5割、県費2割、地元負担3割)として3番川用水の新設、改良が計画され昭和28年度(1953)にようやく完成しました。この水路を地元では新川と呼んでいます。
中帯江地内では2箇所、道路と水路の下を伏越工(底樋で下をくぐってくる)として施工しています。
 この水路は高梁川の笠井堰で取水し、酒津配水池で配分され、倉敷市街地の北から東へと延々と流れて、福島と五日市の境の六間川を伏越し、五日市を経由して、中帯江の南部を西から東へ貫流、茶屋町早沖地内の「ひうち潟樋門」まで延長約6.6キロ、平均水路幅4.1メートルとなっています。
 3番川用水は幹線水路のため五日市地内の樋門から取水して旧3番川用水へと導入され、中帯江一帯のすべての田んぼに利用されています。

3、 新川建設当時のお話

 当時、中帯江地域の新川建設を担当した蜂谷工業の職員だった溝手敏夫さんのお話です。
 『工事期間は昭和26年から27年の渇水期で約8ヶ月でした。護岸に花崗岩の割り石を使っていますが、この石は三田から馬車で運び、堤防の土砂は中帯江亀山の東端の部分に発破をかけて生産し、トロッコで運びました。川の底はコンクリートですが、ミキサーを現場に据えて生コンを練りました。道路の下を通る部分(通称底樋)が中帯江には2箇所ありますが、ここには大人が少ししゃがんで通れるくらいのヒューム管を埋めています。建設機械の無い時代であり、ほとんど人力で、毎日30人程度が作業に従事していました。』

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