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第七章 中帯江の教育と文化

 倉敷市中帯江。古くから人が住み、不洗観音さんを中心に文化も栄えた土地です。ここではその教育と文化に ついて語りましょう。

1、 明治前の寺子屋時代のこと

 最初はやはり「寺子屋」ということになりますね。何と嘉永6年(1853)から当時の庄屋永瀬又七宅に寺 子屋が設置され、明治5年までの約20年間続いたという記録があるのです。教師は種野誠一、発足当時の生徒 数は男30名・女15名となっています。幕末当時から女性の教育にも熱心だった中帯江、記憶にとどめねばな りませんね。
 中帯江のみならず、五日市、黒崎、金田、高須賀などからも通学者があり、「読み書きそろばん」のほか「詩 、生花」も教えたそうです。そう、「俳句」があとで出てきますが、この影響でしょうか。

2、 明治からの教育

 明治5年の「学制」により全国の寺子屋、私塾は全て廃止され小学校になったのですが、当初校舎、施設はそ のまま引き継がれたようなのです。中帯江の子供たちが通った学校を列記します。
・ 育英小学校 明治5(1872)~明治8年(中帯江)
・ 帯江小学校 明治8 ~10年(倉敷市二日市)
・ 如水小学校 明治11~26年(倉敷市早高如水庵)
・ 豊洲小学校 明治26~   (西田)
 豊洲小学校の資料によりますと、就学率は明治20年46%か、。明治26年には71%と急速に向上しまし たが、修学年限は4年の人が多かったようです。義務教育6年制が確立したのは明治41年からです。

・ 開成高等小学校(明治27~大正9) 
 当初豊洲地区には高等科はありませんでした。そのため現岡山市箕島にあった開成小学校高等科に通う人もあ りました。豊洲小学校に高等科が設置された大正9年からはこちらに移ります。

・ 豊洲尋常高等小学校 大正9~昭和16年
・ 豊洲国民学校 昭和16~22年

 そのほか明治2~33年ごろまで、現高須賀地区に犬養松韻(豊洲村の名を付けた人)の漢学塾があり、各地 から多くの塾生を集めていたり、大正から昭和22年ごろまで「豊洲補修学校」「豊洲青年学校」などが設置さ れ、小学校修了者を受け入れて中等教育をしていました。
 大正から昭和のはじめにかけては、岡山・天城の中学校、高等女学校、商業学校(工業学校は昭和14年から )へ通う人も出てきました。

3、 新制教育発足から

 昭和22年に現教育基本法が制定され、教育も大きく変わりました。豊洲小学校も「豊洲村立」から「倉敷市 立」となり、戦後当初の1クラス50名余のすしづめ状態から、現在は2クラスで、1学年は60人程度を保っ ています。
 倉敷市立豊洲保育園(昭和26年創設)、同豊洲幼稚園(昭和54年中帯江に創設)もはじまり、中帯江から もほとんどの幼児が通園するようになりました。また中帯江の生徒が通う中等教育では次のような変遷がありま した。
・ 帯江中学校  昭和22年~(倉敷市加須山)
・ 多津美中学校 昭和37年~(同 有城)
・ 東陽中学校  昭和53年~(同 高須賀)
*新教育制度は小学校(6年)中学校(3年)の9年間の義務教育の上に、高等学校(3年)大学(4年)と6 ・3・3・4の制度が確立された。中帯江でもほとんどの者が高等学校へ進学、男女とも大学進学者が急増し、 現在に至っている。

戦前に唄われていた豊洲校校歌

1、波美しく東(ひんがし)の
  海に浮かべる黒鉄(くろがね)の
  桜花咲く日の本の
  魂受けし我が友よ

2、観音山の岩をよぢ
  汐入り川の水を浴び
  練り鍛えたる我が力
  いでやためさん我が友よ

3、身はつづれをまとうとも
  口には粗飼を喰らうとも
  清き心をみがきなば
  誰にか恥じん我が友よ

4、海となるべき水さえも
  谷間のしばをくぐるなり
  たゆむにまなく我がつとめ
  励めつくせ我が友よ

現在の豊洲小学校校歌

1、みどりわきたつ 大空に
  平和の鳩が ぼくたちの
  さあ学び舎のまどあけて
  みんな歌えよ ほがらかに
  楽しい豊洲小学校

2、楠の若葉といの花が
  正しく伸びる わたしらの
  重い使命を呼んでいる
  さあ学び舎の芝ふんで
  ともにきたえよ 身と心
  伸びゆく 豊洲小学校

3、六間川のさざ波が
  郷土を背負う よい子らの
  かがやく行く手呼んでいる
  さあ 学び舎に睦まじく
  日々にみがけよ 智と徳を
  栄えゆく 豊洲小学校

4、 中帯江の俳句文化

 明治の銅山繁栄とともに、中帯江に「俳句の会」が発足し、戦後の昭和30年代までの間継続しています。不 洗観音寺正面回廊を上り詰めたところに2枚の板の横額があります。共に俳句関連の額で、1枚は明治33年の もの、もう1枚は同37年のものです。後者には「未来庵立机披露句十五万抄録」として「鳥羽三日月会、中庄 硯友会、福島未流会、黒崎至玄会、豊洲不洗会(中帯江)」と当時の俳句の会の名が並んでいます。当時帯江銅 山に招かれていた近藤鍬之助(未来庵白骨)が倉敷千秋座において傘下の会を糾合、各地から募って句会を催し た記録です。なんと岡山、倉敷、早島、玉島、邑久など備前備中一円にわたって15万首も集まり優れたもの1 850余りを披露したとあります。この記録は「若菜籠」という句集にまとめられ、現在もご子孫の手で保存さ れています。そのなかから中帯江の人の句をいくつかを紹介します。

 山茶花や 何より嬉し 茶の風味   林 景光
 置き換えて 梅が香の添う 机かな  大森如水
 文台の 上や初日に 墨かほる    尾郷原天遊
 文机や 梅置き換えて 日の匂う   永瀬柳月
 鶯や 朝な朝な 声の冴え      貝原 秋山
 潮干狩り 御座船近う 拝みけり   鉱山 金山
 はせを葉の かげに小さき 机かな  未来庵白骨

 不洗会はその後大正期へと継続したが、昭和初期については記録がないようです。しかし注目すべきは終戦直 後から豊洲各地で句会が催されたという事実です。明治の終わりに青春の一こまとして俳句を楽しんだ人たちが 中心となり、老若を問わず、また親子で「不洗会」と称して俳句(当時冠句)を楽しんだといわれています。
 終戦直後数年間が最も盛んで、昭和30年代後半の高度成長期入って次第に消えていくのですが、戦後の主な 句をここで紹介しておきましょう。どれも戦後の自由社会を反映してのびのびとした秀句ではありませんか。

 郷愁は 落ち葉の音の 深まりぬ   新人
 この母に 愛され蕎麦は 実となりぬ 白虎
 急停止 職は鉄路に 生きていく   天
 峠越え 天然色の 映画見る     毎日
 花散りて 古き文焼く 煙かな    八光
 春淋し 只思い出に 生きる今    戦争未亡人
 出穂みて 又編みふやす 俵菰    一青 

 こうして中帯江とその周辺に栄えた俳句文化。明治期の銅山繁栄で、各地の文化人が集ってきたこともその一 因ではありますが、お隣の倉敷村が幕府領として江戸時代に町人文化が栄え、芭蕉門下の人の影響もいくつかあ ったこととの関連も無視できないのではないでしょうか。ともあれ、この中帯江の地、文化輝く伝統の地のよう ではあります。そうした縁か、昭和56年笠岡の人による「春の雨 観音道は なつかしき」という句碑が、不 洗観音寺境内に建っています。

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