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倉敷市中帯江。古くから人が住み、不洗観音さんを中心に文化も栄えた土地です。ここではその教育と文化に ついて語りましょう。
最初はやはり「寺子屋」ということになりますね。何と嘉永6年(1853)から当時の庄屋永瀬又七宅に寺 子屋が設置され、明治5年までの約20年間続いたという記録があるのです。教師は種野誠一、発足当時の生徒 数は男30名・女15名となっています。幕末当時から女性の教育にも熱心だった中帯江、記憶にとどめねばな りませんね。
明治5年の「学制」により全国の寺子屋、私塾は全て廃止され小学校になったのですが、当初校舎、施設はそ のまま引き継がれたようなのです。中帯江の子供たちが通った学校を列記します。
・ 開成高等小学校(明治27~大正9)
・ 豊洲尋常高等小学校 大正9~昭和16年
そのほか明治2~33年ごろまで、現高須賀地区に犬養松韻(豊洲村の名を付けた人)の漢学塾があり、各地 から多くの塾生を集めていたり、大正から昭和22年ごろまで「豊洲補修学校」「豊洲青年学校」などが設置さ れ、小学校修了者を受け入れて中等教育をしていました。
昭和22年に現教育基本法が制定され、教育も大きく変わりました。豊洲小学校も「豊洲村立」から「倉敷市 立」となり、戦後当初の1クラス50名余のすしづめ状態から、現在は2クラスで、1学年は60人程度を保っ ています。 戦前に唄われていた豊洲校校歌
1、波美しく東(ひんがし)の
2、観音山の岩をよぢ
3、身はつづれをまとうとも
4、海となるべき水さえも 現在の豊洲小学校校歌
1、みどりわきたつ 大空に
2、楠の若葉といの花が
3、六間川のさざ波が
明治の銅山繁栄とともに、中帯江に「俳句の会」が発足し、戦後の昭和30年代までの間継続しています。不 洗観音寺正面回廊を上り詰めたところに2枚の板の横額があります。共に俳句関連の額で、1枚は明治33年の もの、もう1枚は同37年のものです。後者には「未来庵立机披露句十五万抄録」として「鳥羽三日月会、中庄 硯友会、福島未流会、黒崎至玄会、豊洲不洗会(中帯江)」と当時の俳句の会の名が並んでいます。当時帯江銅 山に招かれていた近藤鍬之助(未来庵白骨)が倉敷千秋座において傘下の会を糾合、各地から募って句会を催し た記録です。なんと岡山、倉敷、早島、玉島、邑久など備前備中一円にわたって15万首も集まり優れたもの1 850余りを披露したとあります。この記録は「若菜籠」という句集にまとめられ、現在もご子孫の手で保存さ れています。そのなかから中帯江の人の句をいくつかを紹介します。
山茶花や 何より嬉し 茶の風味 林 景光
不洗会はその後大正期へと継続したが、昭和初期については記録がないようです。しかし注目すべきは終戦直 後から豊洲各地で句会が催されたという事実です。明治の終わりに青春の一こまとして俳句を楽しんだ人たちが 中心となり、老若を問わず、また親子で「不洗会」と称して俳句(当時冠句)を楽しんだといわれています。
郷愁は 落ち葉の音の 深まりぬ 新人 こうして中帯江とその周辺に栄えた俳句文化。明治期の銅山繁栄で、各地の文化人が集ってきたこともその一 因ではありますが、お隣の倉敷村が幕府領として江戸時代に町人文化が栄え、芭蕉門下の人の影響もいくつかあ ったこととの関連も無視できないのではないでしょうか。ともあれ、この中帯江の地、文化輝く伝統の地のよう ではあります。そうした縁か、昭和56年笠岡の人による「春の雨 観音道は なつかしき」という句碑が、不 洗観音寺境内に建っています。
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