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第9章 中帯江の歴史に残る諸家

 中帯江の歴史をひも解きますと、特に江戸時代以降の歴史で欠かせないお宅がいくつか出てきます。今や30数軒に広がった「永瀬家」もその1軒なのですが、ここではそうした家を限定的に取り上げてみます。

1、 江戸時代の大庄屋「永瀬家」のこと

 今、中帯江で「永瀬家」といいますと、新田地帯一帯にひろがりその半分近くを占める苗字になってしまいました。その元はといいますと、どうやら「せーのかみ」の前、亀山の横にあった、江戸時代の大庄屋「永瀬家」に行き着くようなのです。
 元家を「大前永瀬家」といい、永瀬又七の名を繋いでいたようです。そして「中前永瀬」「大後永瀬」の3家があり、現在の「永瀬家」のほとんどはこの3家から分かれた家らしいのです。大前永瀬家のご子孫は戦後にも一時中帯江に住まれましたが、今は神奈川県平塚市で医師をされています。
 大前永瀬家では、大正から昭和初期に、大原孫三郎氏と共に働いて、倉敷紡績の監査役も勤めた永瀬又七氏も出ています。
 この永瀬家、一部には福山合戦(南北朝期)の生き残り説があるほか、旧の早島町史には「紀州新宮からお供、のち召抱え」という記述があるなど、出自には不明な点が多いようです。ただ家を構えたのが中帯江の新田地帯であることなどから、江戸期以降にこの中帯江の地にやってきた有力家と推察されます。
 写真右は大前永瀬家屋敷跡

2、 庄屋・草野(種野)家

 中帯江にはもう一軒の庄屋家があります。江戸期の旗本知行地の支配機構の中心をなしていた「庄屋」制度。1軒の家に長く固定されたわけではないようなのです。この中帯江を領した早島戸川家では、複数の「村」を治める「大庄屋」と村ごとの「庄屋」がいたようなのです。大庄屋は片山家(高沼=早高・帯高)、木村家(西田)、大森家(早島)、などとこの中帯江の永瀬家が交代あるいは並行して務めていたようなのです。
 そしてこの中帯江では江戸中期から「草野(くさの)家」も庄屋を勤めるようになります。享保(1716)の頃の草野左治右衛門から始まって、誠右衛門、助右衛門、庄之助、泰吉などが幕末まで庄屋を勤めています。
 幕末から明治に活躍した種野清一は戸長にもなり、学校、銅山など各種事業にかかわっています。
 なお、中帯江東谷に現存する種野家の建物(写真)は、築220年といわれ、豊洲地区の現存する建物では最も古いものといわれています。

3、 代官の「今村家」

 今は無くなった家ですが、江戸期の歴史を語る上で欠かせない家ですので、ここで紹介しておきましょう。
 江戸の初期、庭瀬藩の戸川家では、次男三男に領地を分けて「旗本」として幕府に仕えるようにしました。こうして出来たのが「早島戸川」と「帯江戸川」両旗本家です。ともに3,000石余、領主は江戸詰めです。そこで庭瀬藩から付け家老としてきて、早島知行所の行政にあたったのが、現地代官の「今村家」と「中村家(後の納所家)」です。
 江戸期の長い間にはいろんな経過をたどりますが、今村家はこの中帯江に住まいを構え、江戸期の大部分をすごします。8代までは中帯江に住んでいたようで、墓も亀山の上にあります。また幕末の9、10代は早島陣屋内に屋敷を構えたようです。途中、子孫が無く断絶しかけたとき、中帯江の領民たちの嘆願もあって、養子を入れての家再興がかなうなど、領民に慕われた代官であったことをうかがわせる事実も記録されています。右は今村家の家紋です。
 またこの今村家のご子孫、その後奈良県天理市に移られていますし、囲碁の関西棋院で活躍されているかたも出ています。

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